「紙の月=宮沢りえ」論

ネタバレというか、具体的な内容はあんまし書かないようにしていますが、本質的な部分には触れてますので気をつけて下さい。


吉田大八監督作品って、過去作のすべてが「そこまで観客が抱いていた印象を終盤で見事にバタンと裏返す」というものばかりなので、必然「紙の月」もその見事な裏返し技に期待して観にいきました。ホント過去作すべてがそうなので、さすがに身構えて観ちゃったのですが、結論からいいますと、やはり裏返し技はあり、そして、身構えていたのにも関わらずスゲー驚きました。というか正確には「うわあああゴメンなさい……!!」となったのが正しいというか――


銀行員として働く宮沢りえさんがおもっくそ横領します。


突然ですが、ワタクシ、宮沢りえさんがテレビに出てるのを見ると常々「適切な表現といえるかどうかわからないが、じつにおしとやかでステキな大人の女性になったなあ。しかし、人生の選択によっては今とは全然違う場所に立ってた可能性あるよなあ……」みたいなことを思ってしまいます。もう少し具体的に書きますと――宮沢さん、基本的には超絶におしとやかな雰囲気を醸し出してらっしゃいますけど、ちょいちょいイタズラっぽい仕草やおどけた仕草が顔をのぞかせ、それを見るたび、かつて「とんねるずのみなさんのおかげです」に出演し、ド級の美少女なのにもかかわらず、ノリノリでコントやってた姿がフラッシュバックで蘇ってきて、「宮沢さん、かつての眩しすぎる天真爛漫な姿のままで今の年齢を迎えていたらどんなカンジだったんだろうなあ……」と思ってしまうのです。


つって、なんて余計なお世話なんでしょう。
そう。こんなの本当に余計なお世話なのです。

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宮沢りえさんが演じる銀行員梅澤さんの人生は、傍からみりゃあスゲー可哀想というか、切ないです。旦那は金持ちで愛情もあるけど、ちゃんと彼女を見ているカンジは全くしない。そのせいもあるのでしょう、梅澤さんは若い学生と不倫して色々大変なことになっていく。果ては、突然、相撲取りと婚約したのにも関わらず、色んな圧力があったのでしょう、速攻で破断に追い込まれちゃう。そして、そこが転機なのでしょうか、以降は激やせしたり自殺未遂したりするしで――って、なんか途中から混じってしまっていますがようはそういうことなのです。


でもさ。
だからそんなの余計なお世話なんです。


だって、宮沢さんは別にイヤイヤ天真爛漫さを捨て、その代わりにおしとやかさを身にまとったわけじゃないんだもん。人生の流れの中で自然にそうなっただけにすぎない。というか、自分としてベストの選択をしていった結果なんです。だから、全く縁もゆかりも無い一観客であるワタクシが、いつまでも宮沢さんに対して「少女の輝き」みたいなものを求め続け、そして、それが常に見られないからといって、彼女の物語の上に「切なさ」とか「哀しさ」みたいな負の感情を乗っけるなんて、ご本人からすりゃあ「何を勝手な妄想してんねん、んなわけねーだろ。充分楽しいわ」という話なんです。

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さて、この作品の原作は、角田光代さんによるものです。角田さんといえば、「女性が女性で在ることを誇る」といいますか、そういうことを書いてらっしゃる作家さんという印象があります。ワタクシ、原作は未読なので実際のところは分かりませんが、映画からもそういうヴァイブスが垣間見えるところがあります。しかし。こと映画に関しては、物語が宮沢りえさんの人生とおもくそシンクロすることによって、角田光代性とでもいうべきものを呑み込んでしまっているように思います。それは吉田作品における「終盤における裏返し技のキレ」をやや弱めるものになっているような気もする。大きな普遍性を帯びていた物語が非常にパーソナルな物語に収縮しちゃってるわけですから。なのですが、じゃあ、それが作品としての価値を下げているのかというと全くそうではない。その分、濃度は凄まじいことになっている。そう、宮沢りえさんの人生を念頭に置いてみると、むしろ、切れ味や後味は濃厚になるのではないでしょうか。ワタクシはこの作品、ダーレンアレノフスキー監督作品「レスラー」「ブラックスワン」といった「役者の実人生と物語をシンクロさせる系」映画として破格の傑作だと思います。というか、ワタクシ的にはダーレンアレノフスキー作品より圧倒的に素晴らしいと思います。安易なヒロイズムに陥ってはいないこの作品には、昇華というか浄化というか、が在る。


それにしても「紙の月」ですよ。それが意味するところを頭に浮かべ、劇中の「女優 宮沢りえ」さんの横顔を思い出すと、うーむ、なんともいえん深すぎる味わいがありますね。ホント素晴らしいと思います。

「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー」とAWESOME MIX

ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーってCMとかポスターがいまいちイケてなかったから、たとえ良い評判を聞いても「本当に面白いの?」って印象あったんだけど、観てみたら「マジか!!」ってぐらい最高で、でも、この楽しさ伝えるのって具体的な内容を羅列するしかなさそうだし、でも、それは全然賢明な行為じゃないから、結局のところ「観たらイイよ!!」と言うしかないのかなーってカンジだったんですけど、劇中で主人公ピータークイルが大事にしてる、彼のお母さんが作った「AWESOME MIX」というタイトルを冠したカセットテープに倣って、このたびオレ版AWESOME MIX作ってみたら、わりと内容に沿ってるし、未見の方でも私のMIX聞く分には全然影響ないから、劇中の「AWESOME MIX」に対して新鮮な気持ちで接すること出来るしイイんじゃねーか?と思ったので、私が選んだ曲とその理由を極々簡単に記して残しておきたいと思います。


こちらがオレ版MIX↓↓↓
AWESOME MIX VOL.T by snowball | Mixcloud


ちなみに、46分カセットテープに丁度おさまる形で作ってたりします。
というわけで、まずはSIDE:Aから――

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【1】Having A Party / Sam Cooke
「パーティがはじまるよ!」っての、この映画によく似合うじゃないですか。


【2】Shotgun / Junior Walker & The All Stars
そりゃあアレでしょう、銃撃戦あるし。


【3.】It's Your Thing / The Isley Brothers
アイズレーは何曲か候補あったのですが歌詞で決めました。
"It's Your Thing, Do What You Wanna Do"
"I Know You Wanna Do What's Right"
かっこいい!!!


【4】Waiting For The Band / Nicky Hopkins
私が世界で一番好きな曲のうちの一つです。
60年代〜70年代にかけて活躍したセッションキーボーディストであるニッキーホプキンス、彼が歌う内容というのは「一人ぼっちでバンドがやってくるの待ってる」というもの。さ……寂しい……。そして、この孤独感はたった一人地球を離れて生きてきた主人公に重なったりします。泣ける……。


【5】Supesonic Rocket Ship / THE Kinks
このタイトルでカリプソテイストってのバッチリだなーと。
あと、レイ・デイヴィスが公式で何言ってたとしても下ネタ感あるし。


【6】Born On The Bayou / CCR
【7】To Kingdom Come / The Band
1セットで。ここも歌詞がイイんだけど、ネタバレというか何かになるかもしれないので記載はしないでおきます。展開如何によっては続編に使えんじゃないですか?どうですか、監督。


【8】Alison / Evis Costello
"I Know This World Is Killing You"
ってのは、憎しみの渦の中で生きてきたガーディアンズのメンバーである女戦士ガモーラにぴったりで切ないです。


【9】Sing To Me
こんなアーティストいませんね。カバーアップです。
全然ディスカバリーでもなんでもない曲ですけど、こういうのあるのほうが楽しいじゃん!

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で。ここからはSIDE:Bということで。
「一丁カマしたろうやないか!!!オラオラ!!!」ってとこからのBGMを意識してのスタートです――


【10】Undercover Of The Night / The Rolling Stones
【11】I Want To Take Higher / Sly & The Family Stone
AWESOME MIX作ろうかなーと思って最初に浮かんだ部分の一つがこの並びでした。つかさ、ピーターの母ちゃんがテープ作ったのって80年代後半なわけじゃないですか。元のMIXにも当てはまるんだけど、当時「最強MIX!」つって「Undercover〜」入れてたとしたら、超絶にセンスがイイか超絶にセンス悪いかどっちかですよね。


【12】Not Great Men / Gang Of Four
ギャングオブフォーは「At Home He's A Tourist」と悩んだんだけど、社用車のショボイ環境で聞いたら音が埋もれまくりで何が何か分からなかったので、より分かり易いこちらの曲にしました。「偉くない人たち」ってのはガーディアンズにもふさわしいですしね。


【13】Keep Running / The Boys
これはもう「Keep Runnnigだろ!!!」ってカンジで。説明になってないですが。


【14】Holdin On
カバーアップです。【9】同様、全然オブスキュアじゃないんですけどなんかこういうのあるほうが楽しいじゃん!!


【15】(Just Like)Starting Over / John Lennon
Undercover〜」「Take Higher」と同時に思いついたのがコチラ。改めてイイ曲だなー。


【16】One Monkey Don't Stop No Show / Honey Cone
曲調から「ショーを続けようよ☆」ってカンジのスゲーポジティブな内容だと思っていたのですが、この度調べてみたら、結構皮肉の効いた歌詞だったんですね……でもイイじゃないですか、ほらなんかそれもジェームズガンぽいし!!ほらほらもうオートリバースで「パーティがはじまるよ!」つってるし!!勢いで誤魔化すカンジもこの映画っぽいということで!!!

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と、こんなカンジなんですけど、結果からいえば、「ピータークイルの母ちゃんがイギリス人だったら」感もあるかなーなんて思ったりもしてて、まあなんというか、色んな人のAWESOME MIX聞いてみたいなってカンジです。全然肩肘張ったヤツじゃなくって。「ベタ」っていう言葉を使うのちょっとイヤなんですけど、そんなの別にイイじゃんね、「ベタ」でも――ってカンジです。ベタだと思っていたモノでも、時間経過してから聞いてみたり、置き場所を変えてみたりすることで良さが分かることあるし。っていうのも今更アレな時代だと思うのですが。

改めて「LEGOムービー」を観た。

最近、お子さんちょっと知恵がついてきて「レボ(=レゴのことです)できかんしゃトーマス作ッテー」とか「パーシー作ッテー」とか言ってきて、でも、我が家にはそんなに沢山ブロックないから、8bit的技法でそれっぽい色使いのボンヤリした固まりを作って、あとは「シュッシュー!速いねー!!」つって大声を張り上げて、勢いで誤魔化して遊ぶ毎日だったんだけど、昨日、いつものようにトーマスっぽい固まりを作ったりパーシーっぽい固まりを作ったりして遊んでたら、お子さんが急に「レボの映画見ルー」つってきて。


じつはLEGOムービー、これまで何度か一緒に見ようとしてきて、でも、その度お子さん速攻飽きちゃって、すぐに「トーマス見ルー」つってくるもんだから、完走どころかまともに見たことなかったんだけど、今回は向こうから自発的に「見ルー」つってきたから「これはもしかしたら大人しくみてくれるかも……」と少し期待して見始めたら――予想以上にキャッキャキャッキャ楽しんでくれたんだ。


でさ、LEGOムービー、お子さんと一緒にじっくり見たらすげー面白くって、つってもアレなんだよ、初回一人でみた時もスゲー面白かったんだけど、インターネットみてたらあるじゃん、「てめーちょっとは配慮しろよ」みたいな強烈なネタバレかまされること、それをさ、よりによってLEGOムービーでやられたんだよね、公開されて間もないタイミングで、ほんっとよりによってって話でさ、だから、LEGOムービーを初めて見た時は「すげー面白い!でも!こうなるの!知ってた!!これは!!本当に!!許せない!!!」つって完全に怒りが勝っちゃったんだ――つーと神経質だなーと思われそうだけど、そうじゃないんだよ、こちとら元々あんましネタバレネタバレ言いたかないタイプなんだよ、でもさ、LEGOムービーはさ、ダメだろ!!


ちょっと話がそれちゃったけど、まあとりあえず改めてLEGOムービーを観てみると色々見えてくるわけ、「この映画、グラインドコア級に展開速いし情報量ハンパないからお子さんはついていけんかもなあ」とか、あ、でも、大人でも全然把握し切れてなかったなあとも思って、なんせさ、ヒロインのワイルドガールいるじゃん、彼女って台形のボディの上に絵でくびれが描かれてるっつーことに、この度の鑑賞ではじめて気づいてさ、そしたらもうそれがツボにハマっちゃって、ワイルドガールが出る度笑えちゃって、ああ本当ワイルドガール最高だなあってなったんだ。


あとさ、ちょっと抜けた宇宙飛行士いるじゃん、で、あの宇宙飛行士、ヘルメットのアゴんとこ割れてんじゃん、あれ、最初見た時から「うわあ……スゲーなー」とは思ってて、つーのは、小さい頃、ウチにもあれと同じ型のレゴあったんだけど、全くおんなじカンジでヘルメットのアゴんとこ割れてて、だから「あの割れ方してんのウチのだけじゃなかったんだ!」って感動したんだけど、改めて見ると、そこからもう一段深い感情沸き上がっちゃって、あのヘルメットだけで泣けてきちゃって――


「今、オレがレゴで遊んでるお子さんを見守ってんのとおんなじ視点で、オレの両親はヘルメットの割れたレゴで遊ぶオレを見てたんかなー」と思うとたまんなくなっちゃって、さらに、お子さんが大きくなった時「そういや小さい頃レゴで遊んだなー」なんて思い出すことあんのかなーなんて思うとさ――


もうちょいいえばよ、そこそこ色にまとまりがあるだけのブロックの固まりをだよ、想像力で補って「トーマス!」つって呼んでさ、その上に「ネコマン乗セル!ア!トーマスニネコマン二人乗ッタネー」つって、トーマスの上にキャットウーマンバットマンのレゴ(お子さんにとってはこの二人はどちらも「ネコマン」なのです)を乗せてさ、「シュッシュー!速いねー!!」つって遊んでんのよぎったりするわけ、そしたらさ、映画ん中で、どんだけ毒舌キャラにアレンジされてたとしても、バットマンのレゴが登場するだけで――


泣くわ。


と、そんなカンジで終盤ウルウルしまくってたんだけど、その頃、お子さんはちょっと飽きてきちゃって画面から目を離しまくりで、挙句、トミカのダンプカーの荷台にキューピーちゃん乗せて「ドイテ下サーイ。病院ニ運ビマース」つって遊んでたんだけど。


泣くわ。

「TOKYO TRIBE」、その鈴木則文イズム

ネタバレしてるかな。
別にいいよって方は、
Ultimate Breaks & Beatsでもかけながらどうぞ。

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冒頭でがなるユーちゃんと違い
組みこまれてんじゃん、漢とMEGA-G
チョイ役なのにヤバいANARCHY
とか、色気出まくりヒップホップの人たち


そりゃハマるだろ、ヨウスケ・クボヅカ
ビジュアル以上にオーラパネーつーか
あ……意外とアレだな……愛嬌のあるフロウ
オレん的軍配は海くんのほう


それにしても、ライカ・ノリフミ?
分からんこたないぜ、その雰囲気
なら見たかったぜ、【censored】政治屋どもに
バキュームカーで【censored】かけるシーン

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そうだ――
【censored】ぶっかけるシーンがあったらさらに評価あがるぜ、
オッパイ出てる時点で及第点クリアしてるけどさ、
どうせでけー車出すんなら、バキュームカー出してさ、
なんつーかヒップホップ的にさ、つってよくわかんねーけど、
あ、そんなこと言ってる間にこれはそろそろクライマックスだな、
ん?あれ?
これは……
このエンディングは!
これは!!!
泣ける!!!
このテイストは間違いなく鈴木則文!!!!!

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男の優劣を決めるのは何?
んなもん、【censored】がデカいほうが勝ち!
はあ?アホか、デカさなんて関係ねーし!
全ては中身だろうが、男の価値!


呆気にとられるバカすぎるオチ
斃れたトライブ達は、犬死にの境地
でも、明らかに監督はその先をウォッチ
「現実とフィクション、バカなのはどっち?」

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つまりだ――
じゃあ、人死にが許される争いはあるっつーのか?
人間の尊厳を踏みにじる行為が正当化されることはあるっつーのか?
例えば、民族の誇りをかけた闘いなら崇高で許されるっつーのか?


よく見てみろよ、今この国で、もしくは彼の国で、争いを起こしている、もしくは起こそうとしているヤツらの面構えや言動を。
とくにウチの国のあいつ、【censored】だよ。


【censored】 の 野 郎 、
完 っ 全 に ア ホ さ 滲 み 出 て ん じ ゃ ね ー か 。 


血で血を洗う争いに優劣なんてねーよ。
全部同列でアホな行為だよ。
つかさ――
賢ぶってねー分、【censored】のデカさで戦争してるほうが1000億倍ましだよ!!

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“ギャングが争う中考えた”
人類音楽史上、類い稀な
シーンの経験、サンプリングすれば
解けんじゃねーの、報復の連鎖

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TOKYO TRIBE」は圧倒的に正しいよ。
映画的にも正しいし、ヒップホップ的にも正しい。
いや、正しくないかもしんないけど、それは既存の価値観だろ?
手垢のつきまくった既存の価値観で図る必要なんてねーよ。
もういいだろ、そういうの。
今、目の前に在る社会がどれ程美しいっていうんだ?


別に美しくねーだろ。


それなら、今、猥雑だと思われているものの中から、俺たちで美しさを見いだせばいいし、見出すべきだよ。


見出すべきなんだよ。

「思い出のマーニー」

幼い頃に実の両親と死別した12才の少女、アンナさん。繊細な性格で周囲と容易に打ち解けることができない彼女は、夏休みの間、喘息の治療も兼ねて普段暮らしている街を離れ、養母の親類の居る田舎街へと赴きます。


この映画、「良かった!」という意見を耳にしつつも、どこか懐疑的な気持ちで観にいったのですが、オープニングの段階でソッコー引き込まれてしまいました。懐疑的な気持ちを抱いてたワタクシ、なんてバカだったんだろう。
――オープニング、野外学習で女学生達が公園で写生をしています。みな思い思いの友達グループをつくってキャッキャ言いながら絵を描いているのですが、そんな中、主人公のアンナさんはぽつねんとベンチに座り、とても精緻な絵を描いています。そして、彼女は「世界には内側と外側があってワタシは外側の人間……」なんて独白をする。この時点で「これは俺の映画なんじゃないか……!??」とならざるをえない。ならざるをえないです。だって、アンナさんって間違いなく「クラスの皆がみて『面白かった!』なんて言ってるジブリの映画なんて観たくもないし、実際に今までも観たことない。どうせつまんないのに決まってるし」とか言ってるタイプです。絶対言ってるタイプ。それはつまり「マーニー?どうすかね?」つってるワタクシとおんなじなわけです。親近感ハンパない
そんなこじらせ少女のアンナさんが、たびたび頬を赤らめながら*1成長していく映画――最高としかいいようがありません。

田舎街に着いた彼女は―その美しい自然の風景に魅了されつつも―街での生活同様、人間関係を上手く構築することが出来ず、スッキリしない毎日を送ります。そんなある日。彼女は、海の畔に立つ今はもう誰も住んでいないはずの屋敷でマーニーという金髪の白人少女と出会います。出会ったときから心通じ合うアンナさんとマーニー。はたしてマーニーとは一体何者なのでしょうか。実在の少女?それとも夢?幻?


この映画、イビツなところは沢山あるんです。これはもう根本的なところですが、マーニーが金髪白人少女だということから生じる違和感はやっぱハンパないです。アンナさんが「マーニー……マーニー……マーニー……!!!」つって名前を連呼するたび、心のどこかで「この子は何を言っているんだろう。なんだか若干タカラヅカぽい異様な世界観だな」と思ってしまう。また、アンナさんが、明らかにイイ人そうな養母に対して大きな不信感を抱いた理由が「ひとえに金」ということも結構ギョッとした。いや、実際そういうもんかもしれんけど、なんかそこだけおもくそ生々しくって、とてもビックリした。他にも、独白の多さや、マーニーの秘密の解け方がわりと一気にドバッと出てくるところなんかもそんなに美しい構成ではないと思います。しかし、イイのです。全然イイのです。良さが振り切れてるからイイのです。こうまで魅了されてしまうと、色々在る難点も「万人受けするものにしてくれなくて有難うございます……嗚呼、オレだけのマーニー……」という気持ちにさえなるのですから。完全にカルトですね。

アンナさんとマーニーは、月夜の下、ボートに乗ったり、花の売り子のふりしてパーティに参加したりして、とても楽しい時間を過ごします。そのおかげでしょう、しだいに生き生きとした表情をみせるようになるアンナさん。だったのですが――ある日、アンナさんがマーニーの屋敷に行きますと、なんとなんと改装工事が行われているではありませんか。どうやら新しく入居する家族があらわれたようです。呆然と改装されていくサマを眺めるアンナさん。すると突然、マーニーの部屋の窓が開き、中からメガネの少女が現れます。どうやらこの家の新しい住人の娘さんのようです。そのメガネの少女は言います。「貴女、マーニーでしょ!?マーニーよね!!」と。またまた驚くアンナさん。だって、アンナさんは、マーニーは自分の心が生んだ幻の少女だということを知っていたのですから。


この作品、終盤でマーニーの秘密が明らかになり、それまで隠されていたレイヤーがグワッと前面に出てきます。その層、いうなれば「沈殿した記憶の層」とでもいうべきものが露わになり、物語の最上層にのせられることによって、作品全体の景色はすごい深みのある色彩を帯びることになります。その化学反応は本当に凄まじく、ふと振り返ると、アンナさんやマーニーの見た景色や触れた物質は勿論のこと、養母がみてきたであろう景色や、養母の親戚夫婦のみてきた景色さえも幻視してしまい、なんともいえん輝きをみせはじめるのでした。というか、「沈殿した記憶の層」の力はこの作品の外にまで滲み出て、ほんの何気ない日常の景色、例えば、お昼にラーメン食べに行ったら、ボックス席でご家族さんが食事してて、で、小1ぐらいの娘さんが美味しそうにラーメン食べているのをみるだけ*2で、ここに至るまでの物語」と「ここから先に辿るであろう物語」を幻視してしまうレベルの当てられ方をしたのでした――

「ち、ちがいます……!けど、どうしてマーニーのこと知ってるの……?」慌てて答えるアンナさん。「え?違うの?じゃあ部屋を掃除してる時に出てきたこの日記の持ち主のマーニーって誰なんだろう?」メガネの少女は古びた日記をアンナさんにみせます。そこには、月夜の下、ボートで遊んだり、パーティに花売りの子を招きいれて遊んだことが書かれている――。「でも、この日記、ここから先のページが破られてんだよね。絶対どこかにあると思うんだけど……ちょー気になるから探しておくね!」とメガネの少女。マーニーとは一体……!!?

*1:テレビアニメ「キルラキル」も主人公の頬赤らめがヤバかったですね

*2:もちろん本編とはなんの関係もありません。しかし!

「ビフォア」シリーズ

或る男女の姿を9年ごとにとらえています。


「ビフォアシリーズは現状3作作られている」ということは知っており、最新作である3作目「ビフォア・ミッドナイト」の予告をサラリと見たことがある――程度の状態で、まずは第1作にあたる「ビフォア・サンライズ」をみたわけですが、たとえ、各作品の具体的な中身のことは知らなくっても、この物語が続くことは知っている以上、未来人の視点が介在してしまい、いやこれは「してしまい」というより、むしろ「そのおかげで」面白さにブーストがかかり、結果的には情報量ゼロの状態で観るより、数段楽しく観ることができたと思います。初見のくせに、ワタクシが見ているのは「このキラキラしている瞬間」ではなく「あのキラキラしていた瞬間」になるわけです。たまんねーな、おい。

だから、そこから続けて観た、2作目「ビフォア・サンセット」、3作目「ビフォア・ミッドナイト」は、どちらかというと、1作目を補完していくような印象でした。それら2作品は単体でも面白いけど、やっぱ軸になるのは1作目であって、つまり、95年に起こったロマンチックな出来事はフィックスされており、その上に、2作目3作目のストーリーが盛られていくカンジ。「あの二人はこうなったんかー」という感慨深さより、一巡してから再度1作目をみて、一層「こんなこと言ってっけどこの後は…」と思いたいカンジ。こうなるとエンドレスです。マジたまんねーな、おい。


といいつつ、この補完エネルギーは1作目にのみ集約されていくわけではないところがこのシリーズの素晴らしさだと思います。良い作品というのは色々行間を埋めたくなりますね。
具体例を挙げますと、ワタクシ、2作目の「ビフォア・サンセット」を観た時、ヒロインのジュリー・デルピーさんの過剰な痩せ具合が結構辛かったんですね。さらにいえば、1作目と3作目の間に起こる事態ってのは(重ね重ねになりますが3部作ってのを知っている以上)ある程度読めるわけですから、元々「ブリッジ感」てのを強く感じた。だから、初見時の「サンセット」に関しては、面白いけどそこまではまらなかったのです。が。3作目をみてから、改めて、デルピーさんの激ヤセっぷりを振り返ってみると『彼女があんなに痩せちゃったのは彼女にかけられたある種の呪いの強さのせいだったんだろうな……でも、彼女はその後色々あったおかげでイイカンジの肉付きを取り戻した(?)んだな…』と思えて、印象がめっっちゃくちゃ変わっちゃって、途端に2作目も愛おしくなったのです。ホント各作品の相互作用っぷりハンパないです。

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それにしてもです。このシリーズにおけるデルピーさんの体つきの雄弁さったらありません。1作目での初々しい二の腕と、2作目で一旦激ヤセを経てから熟成された感のある3作目での二の腕――この二つの二の腕を巻尺で図ってみたら、かなり近しい直径がはじき出されるような気がします。が、しかし!それぞれの二の腕の味わい、というか、触り心地は結構違うのではないでしょうか。採れたての鮮魚のウマさと、一旦陰干してから炙ってみた魚のウマさ、たとえ同じ魚であってもそれぞれ違ったウマさがある…!!みたいな。ああ、デルピーさんの二の腕触りながら眠りたいなあ……


当然、経年変化による面白さを感じる部分は他にもあり、中でも、ワタクシがグッときたことの一つは――じつはこの二人、シリーズ通して延々と生(性)と死について話してて、その中身が、時間が経つに連れ、観念的なものからより具体的なものになっていってる――ということです。死に関しては、3作目においては、自身らの経験に加えて人生の先輩方のお話に触れたりする場面があるからかなり意図的なものなのでしょう。性に関しては―とくにデルピーさんが―作品重ねるごとに、より直球、というかエグみを覚えるぐらいの下ネタぶっこんだりしてて、これもまた一旦3作品通してから1作目に戻ったらタマらんもんがあるのです。「今はまだ初々しさ残ってるけどこの後は…」と思うとタマらんもんがあるのです。ああ、本当面白さがループしまくりです。

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と、まあ色々書いてきましたが、結局、ワタクシはやはり1作目である「サンライズ」が圧倒的に好きなのです。その理由というのは、なんと驚くべきことに、ここまで色々書いてきたこととは無関係で、じゃあどこがどう好きなのかというと、「サンライズ」は街の空気感を捉えているから超絶に好きなのです。ワタクシ、映画等の感想において、かように抽象的表現をするのはイヤなのですが、これに関してはどうにも分析出来ない。この3作品、構造は基本全部同じで、言っちゃえばどの作品もイーサン・ホークさんとジュリー・デルピーさんがダベりながら街を歩いているだけ。それは全作品共通のはずなのに、なぜか1作目からは、ちょっとした肌寒さ、逆にちょっとした熱気、さらには雑踏のざわめき、なんなら街に漂う様々な匂いさえ感じてしまう。これは一体なぜなんだろう。
勿論、「サンライズ」は他の作品とは違って、一晩中街を徘徊して過ごし、やがて朝を迎えるという、「祭り」と「祭りの後」が舞台になっているわけですから、根幹の部分でのドラマティックさってのは在ります。さらには、出会って間もない二人がお互い「恋人までの距離」を図ってる様子にハラハラしてしまうドラマティックさってのも在ります。でも、それだけじゃない。「サンライズ」には、それだけじゃないマジックがかかっていると思うんだ。

「アクト・オブ・キリング」

僕はこの映画を見終わった後、ふと「知性なんてドブに捨ててしまったほうが快適な人生を送ることができるのではないだろうか」と思った。「知性の放棄」、それは「蛮性の行使」を表すのではない。いや、その言葉を使うと、何か遠い世界の出来事のように思えてしまうから否定しただけで、結局、僕が言いたいことは「蛮性の行使」であって、それはつまり具体的にいうと――


「こんなことするのは朝鮮人に違いない」とか「普通の日本人はこんなことしない」といった言葉を発し、忌まわしい行為は全て外部のせいにし、同時に自分は輝かしき正義の使者だと信じる、超絶的な幼児性の発露といえる「反知性」のことを指しているのだ。


雰囲気に囚われて「朝鮮人は悪」「日本人は善」と言えてしまう思考――それは、ジャカルタのヤクザ、通称プレマン達が、数多くの市民に対して共産主義者のレッテルを貼り、彼彼女らを機械的に、そして半笑いで、次々と殺害していった感覚となんら変わりはない。


共産主義者はテロ行為を働く非人間的なヤツら」
「俺らは国家を守った英雄」


さらにいえば、安易に「朝鮮人は」云々言える人間は、プレマン達の虐殺を自らの発言と照らし合わせて考えることが出来ない。つまり、その「反知性」の度合は、自らが行った犯罪行為に自覚的であるプレマン達以上に反知性的――だということにさえ“気付かない”レベルの、底辺中の底辺の反知性なのだ。

自身がその中に埋没している事実を認識出来ないという絶対性――。迷いのない御姿はまるで神のようである。その神々しさを目の当たりにすると「人間の尊厳」などクソの役にも立たないマボロシにしか思えない。そう、実際のところ、反知性から脱却しようともがき苦しんだ果てに得ることができる「人間の尊厳」は、何かを救うことなどできない。「人間の尊厳」なんてものは全く無価値なものなのだ。


本作では、或る登場人物が、過去、自らが行った行為の酷さに“気付き”地獄に堕ちることとなる。しかし、だからなんだというんだ。彼はただ人間の尊厳を獲得し、ただ地獄に堕ちただけにすぎない。そこにそれ以上の意味はない。全く意味なんてないのだ。それはあらゆる人間が「将来確実に起こる出来事に気付いたところで、それから逃れることは出来ない」のと同じだ。人がどう思おうが一度起こったことは起こったことだし、必ず起こることは起こる。足掻いたところでどうしようもないのだ。

ならば。
あらゆる道徳や知性を捨て、目の前に広がる現実世界をただただ思うがまま自由に生き抜いたほうが幸せではないか。勿論、僕は「人間の尊厳」を容易に放棄するつもりは、ない。しかし、だからといって――


我々の生きる現実はどれほどのものだというのだ。


本作において、かつての殺人者達が再現してみせる数多の残虐な場面をみて―そのクオリティの低さから―滑稽さを感じている方も多いようだ。しかし、僕は滑稽さを感じることは無かった。むしろ、そこから立ち上ってくる圧倒的な禍々しさに呑み込まれてしまった。僕は、あの演劇の現場で、泣き叫んだり、それどころか意識を失ってしまった者たちと同様、虐殺の場面に居あわせた。そして、僕は現実と演劇の垣根が溶解していくのをみた。


これは演劇なのか?
じゃあ現実とは一体?


アクト・オブ・キリング」。殺人行為。非人道的な虐殺行為。殺人者たちがかつて自ら行った殺人を再現してみせる行為。では、殺人者たちがかつて行った殺人とは一体なんなんだ?彼らの本意はどこにあったんだ?彼らは生まれた時から純粋な殺戮者だったのか?それともただの映画好きのチンピラが何かの力に導かれて何かの役を演じたのにすぎないのか?殺人者たちは多くの人間の尊厳を奪ったことはまごうことなき事実だが、じゃあそこで話を終わらせたらいいのか?彼らは他者の尊厳を奪うと同時に自らの尊厳も放棄したのではないか?


演劇とは一体なんなんだ?
現実とは一体なんなんだ?
そこに意味はあるのか?


本作は、ただ単に人類の蛮性を映し出しただけの作品ではない。そこに「演劇」という要素を混ぜあわせたことで恐るべき化学反応が起こり、時に鑑賞者をニヒリズムの極点とでもいうべき場所に連れていってしまうのではないだろうか。ニヒリズムの極点――それは「絶望」を意味するのではない。そこに触れ得たからこそ見える世界も、在る。つまり、なんの価値も無い世界の中で、必然的になんの価値も無い「人間の尊厳」を一心不乱に追求することで魂の救済を図ろうとしてもよいのだ。勿論、魂など存在しないにしても、だ。