「アメリカン・スナイパー」は反戦映画なのか

映画評論家の町山智浩さんが、『この映画、どうみても戦争を賛美しているような内容じゃないのに、アメリカでは「イラク戦争でめっちゃ人を殺した男を英雄的に描いてて良い/悪い」みたいな論争になってて不思議』みたいな話されてて、まあ実際、イーストウッド監督自身も「イラク戦争に反対!」という発言されているようなのでアレなんですが、厳密にいうと、この映画の中心にあるのは「イラク戦争に反対!」では無く「国家によるイラク戦争に反対!」ということだと思います。もう少し言うと「戦争という蛮行への怒り云々」ではなく「個人の意思を利用する国家への怒り」だと思います。
なぜそう思うのかというと、そう描かれているからなのですが、じゃあ何故そう描かれているかというと、それはイーストウッドリバタリアンだからです。リバタリアン、すなわち自由原理主義者。「国家は個人の生き方に介入すべきではない」という考え方です。


じゃあ軍隊というものをどう考えているの?
『そんなもん奴隷制度の一種じゃ!ええわけないやろが!』
そんなこといって敵が攻めてきたらどうするのですか?
『そん時は自分を守る為に自分で武器を取ったらええやろが!』
といったカンジ。


つまり、イーストウッドは究極的には「戦闘」そのものは否定しないはずです。だから、もし主人公の戦いが、国家の意思の介在しない、あくまでも一個人による純粋な(?)自衛の為の戦いだったとしたら、監督は主人公を「良心の呵責なくテロリストたちを殺しまくる人物」として描いていたかもしれません。まあそんなことはないでしょうが。しかし、とりあえず、この作品はそうなってはいない。主人公は自分の行いに疑問を持っている。「国家」の意思と「個」の意思に乖離があり、そこに悲劇性が生じている。それは戦争の是非とは別の話です。


ちなみに、この作品、イラク人テロリストたちを問答無用の極悪人集団かのように表現してて、そこには「自衛の戦闘の正統性」の残滓とでもいうべきものが悪い意味で存在しているように感じ、この辺も賛否が分かれることの原因になっているように思うのですが、これ、例えば、極悪テロリスト集団に雇われている凄腕シリア人スナイパーの造詣をもっと深みのあるものにしていれば、今この作品を取り巻くどこか横滑りした論争を避けることが出来たのではないかなあと思ったりもします。
劇中、派兵のたびにネイビーシールズ達の前に立ちはだかる元オリンピックメダリストの凄腕スナイパー。彼はその出自からして極悪テロリスト集団とは一線を画するポジションに居ますが、そのキャラ設定にもうちょい味付けをし、例えば、彼を――他人の土地に入り込み、圧倒的兵力で現地の人々ををなぎ倒す悪鬼の如き「侵略者」であるネイビーシールズに対して「自衛」の為に立ち向かう「カウボーイ」的な男――として描いていれば、同じ「戦闘行為」というカテゴリーの中でのそれぞれの置かれている立場の違いが見え、監督の意図がより明確になっていたんじゃないかなあと思うのです。
そもそも、イーストウッドは「グラントリノ」において「アメリカの良心を仮託するのは別に純アメリカ人である必要はない」と描いているわけですから、この作品においても、そこまでいっちゃっても良かったんじゃないでしょうか。いやまあでも無理かな無理ですね。それはちょっと別次元のような気がするし、そうするとまた別の論争が発生しそうだし。


まあとにかくです、何度も書きますが、この映画の肝は反戦云々ではないと思います。反戦は内在しているけど肝ではない。主人公の精神が疲弊していったのは何故か。それは国家のせいです。自己犠牲的な自由と正義を愛する心を利用し搾取する国家こそが悪なのです。


この搾取の問題は、別にアメリカに限った話ではありません。イスラム世界でも、そして日本でも同じだと思います。自己目的化した国家という概念、と、そのシステムに乗っかる輩というものはホントにロクなもんじゃない。

ちなみに「システムに乗っかる輩」ってのは為政者だけを指すものではありません。それを支持する保守的思想を持つ人間たちを指すのみでもありません。もっともっと広域な話、つまり、この映画に関していうなら、世間の雰囲気が『これは反戦の話です!』となった時、その言葉をただただ鵜呑みにして同意してしまうような批評性の欠落した方々も共犯だと思うのです。さらにいえば、『一概に反戦がテーマともいえんくないですか?』つったら『そんなわけはない。そもそも「反戦」は正しい考え方だ。その正しい考え方に同意しないなんてさてはお前※※だな』なんて言ったりする。これはじつに危うい。危うすぎる。いやだからこの作品、別に「反戦」の映画ではなくはないんだけど、もう少し考える余地のある作品だし、そこを自分の言葉で論理的に考えることが大事なのではないでしょうか。そうはしない彼彼女らの唱える「反戦」は容易に反転するもののようにしかみえません。だって旗の振りようでどうとでもなびくんだもん。自分でモノゴト考えてないんだから。中身ないんだから。ただ何かに依存しているだけなんだから。『同意しないなんてお前※※だな』の『※※』はどんな言葉でもいいんだから
その無根拠さと、ままそこから派生しがちな1mmの謙虚さも持ち合わせいない無遠慮な圧力のかけっぷりというのが、イーストウッドが批判する「ロクでもないシステム」を生み出しているんじゃないですか??