「コングレス未来学会議」

ネタバレ、とかいう以前に、何も知らずに新鮮な状態で観るのがよいと思います。


この作品の原作者って「ソラリス」を書いた人なんだ。なんだなんだ。そう言われたら全く同じ話じゃないか。観てる間は「ソラリス」のことは全く頭に浮かばなかったのだが。いや、浮かんだかもしれない。記憶なんてそんなもんだ。じつにあやふや。そう。浮かんだかもしれない。しかし、「ソラリスのようだ」という感覚がフィックスされることはなかった。なぜなら、決定的に同じなのは或る一点においてのみだからだ。或る一点。或る一点。或る一点のみ。或る一点は全く同じなのに、その意味するところは僕にとっては全く違う意味を持っていて、だから、フィックスされることは無かっ――いや。書いていると分からなくなってきた。やはり、同じなのかもしれない。いや、やはり、違うかもしれない。


他の作品のことは色々頭に浮かんでは消えていった。「マトリックス」とか。ありきたりだけど。あ。だからキアヌリーブスの名前が出てくるのか。しかし、マトリックスと似ているのは非常に表層的な部分であって、いや、そうでもないかもしれない。いや、やはり違うような気がする。何を選択するのか。君は何を選択するのか。君は何を知ろうとするのか。知らずに囚われたままでいたほうがいいんじゃないのか。

もし、知らずにいれるなら、むしろそれは大変幸せなことなんじゃないのか?
だって、知ったところでどうなるっていうんだ?


そこは理想の自分でいられる夢の世界かもしれない。「かもしれない」じゃない。理想の自分でいられるんだ。偽りの世界だけど。他者からみればヒロエニムス・ボス的などこかイビツな世界だけど。でも。だからといって、目覚めた現実の世界は調和を保っているのか?そここそイビツな世界なんじゃないのか?「夢」を捨てて向き合い続ける価値がある世界なのか?というか、今、自分が、みている現実が、ほんとうにげんじつなのか?太ももにナイフをぶっ刺してみたら?いたい?そりゃあ痛いだろう?でも、その痛み、それさえ現実のものじゃないかもしれないんだ。むしろ、そのほうがイイかもしれないけど。

向き合うことは苛酷。でも、もしかしたら、その苛酷さも現実のものじゃないかもしれない。何が現実で何が非現実なのか。とりあえず、たしかなのは、そんなことを考えている自分は在るっぽいということだけだ。
じゃあ、そこから何をどう選択するのが良いんだろう。何が何で何が何か。
知ったところでどうなるっていうんだ?


一番頭に浮かんだのは「かぐや姫の物語」だった。「かぐや姫の物語」は全く同じなんじゃないかな。共通するのは絶望。深い深い絶望。いや、これは「深さ」じゃないんだ。「深ささえない」ことが絶望なんだ。「絶望」ですらないかもしれない。そう、適切な言葉がないんだ。実存に対する八方ふさがり感。もう止めたほうがいいよ、こういう話。

クリストファーノーラン監督の「インセンティプション」ではちっとも描き切れていなかった「limbo」がここにはある。2次元と3次元が織り交ぜられることによって、現実世界が溶け出してしまう。手を伸ばしてもなにもさわれないし、足は宙に浮かんでいる。それは覚悟していた。しかし、時間感覚さえ溶かされてしまうとは思わなかった。君の生きた過去20年の記憶、それは、昨晩、君が眠っているときの僅か10秒の間にみた夢かもしれない。逆に、君は20年生きているのにも関わらず、そのことをたった10秒分だけしか記憶していないのかもしれない。

僕は「ソラリス」における主人公の選択はフィクションの肯定だと思っている。哀しい話。とても哀しい話だけど腑には落ちる。だって、人は、本を読み、映画館をみ、そして、忘れる。「コングレス未来学会議」も全く同じ話だ。とても哀しい。でも。なにか次元が違う。いや。分かっている。ホントは分かってる。マトリックスソラリスと違うところは分かってる。でも、かぐや姫の物語とは一緒なんだ。永遠に続くってことは永遠に続かないってことなんだよ。