「きみはいい子」

数年前、アラブ世界で同時多発的に発生した民主化運動、所謂「アラブの春」に対して、当時「イスラームにはイスラーム民主化がある、し、そうしなければ本当の意味での民主化は成立しない」といった旨の論評が見られました。私もこれには全く同意します。イスラーム世界が民主化という名の「西洋化」をしようとしたところで歪みが生じる。内なるシステムからの民主化をしなければ、西洋の超克、というか旧世界の超克は成し得ないのではないかと。
これ、じつはアジア諸国にも当てはまることですよね。勿論、日本にも当てはまる。そう。全然余裕でアジア的な統治機構である日本にもあてはまるのです。日本はその自覚が希薄な分、他の国より事態は深刻かもしれません、が、とにかく、日本も自国がアジアであるという自覚を持ち、「アジアとしての民主化」をしなければダメだと思うわけです。アジアにおける統治システムの根っこを見据え、それをブラッシュアップしなければホントの民主化なんてあり得ないのではないでしょうか。
では、その根っこにあるのは何か。それは私は「家父長制」ではないかと思うのです。そして、それをベースにして新たな社会を構築していかなければならないのではないかと思うのです。「え……家父長制をベースにって……大丈夫……??」と思われそうですが、いやいや違うんです。まあ最後まで聞いて下さい。

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といいつつ、少し話を変えます。
2013年に刊行された「謎の独立国家ソマリランド」という本があります。この本は、作者がソマリアという、無法地帯的なイメージを持つ国へと出向き、彼の地で実際に見て触れてきたことを綴ったルポルタージュなのですが、これが滅法面白い。といっても「ソマリアって飯が食えんくなったから海賊やってるような国でしょ!そりゃヤバいでしょ!」的な意味での面白さではない。詳細は省きますが、この本、ソマリア北部に位置するソマリランドの社会システムを調べあげてて、そのシステムが最高に面白いのです。それはどのようなものかというと――ソマリランドは「氏族社会」と「その中での掟」という、聞くだに保守感漂うシステムをベースにして、日本など到底及ばないレベルの素晴らしい民主主義システムを確立しているのです。つまり、ソマリランドは、伝統を踏まえた上で、その向こう側へと辿り着いている。いうなれば「アフリカとしての民主化を成し遂げているわけです。

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で。ここでようやく「きみはいい子」の話です。

一人暮らしのおばあちゃんの具合が悪くなったり、新人教師である高良健吾さんが受け持つ小4のクラスが大変なことになったり、尾野真千子さんが子供を虐待したりします。


この映画、とにかく登場人物たちの実在感が尋常じゃありません。私、呉美保監督の前作である「そこのみにて光り輝く」は、世間の評価の高さに反してそこまでハマらなかった。前作では、貧困というかなんというかの描写が、丁寧ではあるものの非常に表面的なものに見えた。しかし、この映画は非常にしっかりとした「軸」があり、その上で丁寧な描写を積み重ねている為、滅茶苦茶面白かったです。


では、この映画の軸は何かというと――「父親の不在」が軸になっているのです。


子供を虐待しちゃう尾野真千子さんの家の旦那はタイに長期出張へ行ってて全く姿をみせない。自閉症の少年は両親いるかもしれないけど劇中に登場するのはお母さんだけ。学校にクレームの電話をかけてくるのもお母さんですし、週末子守してるのも当然お母さん。色んな家庭が登場するのにも関わらず、父親は全く出てこないのです。唯一かな、高良健吾さんの受け持つクラスの生徒、神田さんの家だけはお父さんが登場するのですが、こいつがもう、とてもとても父親なんて呼べない、「こいつ」呼ばわり必至の見事すぎる最低最悪のDQNだったりします。ほんと徹底した父親の不在っぷり。
じゃあ、監督は父親なんて必要ないと思っているのでしょうか?それは違います。ここからは逆算的な話になるのですが、先に挙げたどの家庭もが、誰かが(誰もが)大変つらい思いをしている、そして、どの家庭にも父親がいない、つまり、父親の不在から父親の必要性を訴えているように思えるのです。


ちなみに、この映画、どこの家庭においても最後まで血縁上の父親は登場しません。
ではどうなるのか。皆不幸なままなのか。


そうではない。この映画は彼彼女たちをそのまま放置しません。本来の家族像では父親がいたであろうポジションに「全くのアカの他人」が収まり、そして、それによって彼女たちは救われていくのです。つまり、父親の役割を担うのは父親である必要はないわけです。父親の役割は、近所の人であったり、ママ友であったり、教師が担えばいい。そして、変な言い方になりますが、ある家族の父親が、自分んち以外の公共の場所で父親の役割を担ってもいいわけです。もっと視点を高くすると、この映画は「社会」が父親の不在を埋めてはどうかと提案しているように思うのです。


今、我々が頭に浮かべる「家父長制」なんてクソです。それは旧来の日本の保守的な父親が1mmもあてにならんクズだからです。自分ではなにも出来ん、しかし、力だけは持ってるモラハラクズ野郎です。しかし、我々はそのクズを乗り越えねばなりません。システムそのものを変えようとするのは一先ず置いといて、とりあえずは、全くあてにならんくせに高いポジションに居座ってる人を引き摺り下ろし、我々で互助的にその役割を担っていく。家族と向き合い、家族を守り先導する、理想的な家父長制の父親の役目を担っていく。繰り返しになりますが、それを担うのは実際の父親である必要はない。誰でもいいじゃないですか。女性でも老人でも同性愛者でも未熟でも誰でもいいじゃないですか。その家族にとって適任な誰かが父親になればいいじゃないですか。私はこの映画をみてそんなことを思いました。そして、その先に「アジアとしての民主化」があるんじゃないかなあと思いました。つって、あまりに言ってると父親の責任の放棄を意味してるように聞こえるな。そうじゃなくって、どうしようもない父親を崇め奉る必要なんてないんだから、そんなヤツは無視して、皆で頑張ろうよ!もちろん男も含めて!というわけです。


といっても、これはじつに困難なことです。実際、この映画のラストに関わるお話は明確な解決策を提示してはいない。むしろ、それに伴う「痛み」を感じずにはおれなかったりします。しかし――
ここからは舞台挨拶での高良健吾さんの言葉を借りたいと思います。


「最後に、僕が演じる先生は、訪問先の家のドアを二回ノックします。じつは脚本では一回だけでした。でも、監督が二回にしましょうと言った。正直、一回でもいいんじゃないかなあと思ったけど、出来上がったものを観ると二回で良かったと思いました。昔の彼なら一回ドアをノックし、返事がなかったら、その段階で帰っていたと思います。そこを二回ノックしたのは彼の成長なんだと思います」

「抱きしめることも大事ですが、その前に向き合うことも大事だと思います」


ほんと頑張りましょうよ。