「ザ・マスター」と「笑い」について

なんなんでしょうこの映画。とても素晴らしかったです。見終わった時点でも充分満足感あったのですが、それ以上に後から後からジワジワ魅力が追いかけてきています。思い返せば思い返す程、心がこの映画を求めてしまう。これはもうALCOHOLICならぬ「THE MASTERHOLIC」かもしれません。

太平洋戦争に従軍していたアル中&セックス中毒の元海兵が新興宗教の教祖と出会います。


そもそもこの映画、構造そのものが非常に自己啓発セミナー的だなあという印象を受けました。つってもアレなんです、「前半、うとうとしちゃった」とおっしゃってる方が沢山いらっしゃるから後出しでそう思ったのですが。でも実際さ、第一幕って、自己啓発セミナーというか催眠術というかそういう類いのアレの導入部と同様で、例えば、術者がコインをユラユラ揺らしている状態なのかもしれません。加えて、そこでは主人公フレディの自堕落っぷりというか社会不適合っぷりが描かれるわけでしょう?これはもう自己啓発の導入部としては圧倒的に正しいと言わざるを得ないですよね。被験者の精神を通常状態から弛緩した状態へと持っていき、自身の暗部と否応無く向き合わせて、その間隙を突く――。第一幕の終盤、フレディは、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教の教祖(マスター)、ランカスター・ドッドから自己啓発セミナー的行為を受け、自身のトラウマを吐露し、そしてそれによってマスターに惹かれることによって話が動きだすわけですが、それとシンクロして、物語そのものにもグイングイン惹きこまれていっちゃったりなんかするのですから、うーむ、なんと心憎い語り口でしょうか。

といいつつ。かくいうワタクシは、この映画の絵ヂカラに圧倒され、序盤から結構楽しく観賞しておりまして。マストの上に横たわる主人公。あらぬ疑いをかけられ広大な農地を逃亡する主人公。夕日の中、橋の下をゆらゆらとくぐっていく客船。前後の文脈関係なしにそこだけ眺めていても全然大丈夫だと思えるぐらい美しいシーンの数々にウットリしまくりでした。また、主人公フレディの立ち居振る舞いやファッションも最高で、彼の影響を受けた結果、股上深めのパンツをハイウェストで着用し、50sスタイル全開で街を徘徊したい気持ちで一杯になっていたりします。勿論、腰に手を当てながら

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さて、唐突でアレですが、主人公フレディは、終盤、トラウマの主因が存在する自らの故郷へと足を運び、かつての恋人の家を訪問します。そこでの展開は、信仰による癒し(というか自己啓発セミナーによる癒しですね)の可能性を示唆するものとなっています。かつての彼なら間違いなく暴発してしまっていたであろうシチュエーション。しかし、フレディは――内には負の感情を蠢動させつつも――表面上は問題なくやり過ごして、過去と折り合いをつけます――ってさ、これはあくまでも、信仰による癒しの「可能性」であり、ホントの癒しではないんですよね。なにせ明らかに蠢動していますからね。蠢動。つまり、この作品のキモはここからのもう一段の展開で、これがほんとうに素晴らしかったのです――

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その前に。
この映画、「ランカスター・ドッド率いる教団の世界観は一般常識からするとやっぱヘンなカンジするよなあ」ってのを絶妙な塩梅で描いてます。これがホント絶妙。マスターが決めポーズを取りながら何枚も何枚も写真を撮っているサマ。教団メンバーが狭いエレベーターに閉じ込められて移動しているサマ。極めつけは、彼らがセミナーを開催している家に警察がやってきた時の問答。
「そんな横暴な法律がこの世界のどこにあるというのだ!」
「はあ?ここフィラデルフィアにあるっちゅうねん……!!」
ワタクシ、この冷静かつ的確なツッコミにはおもわず吹いてしまいました。「貴方がたは我々が知り得ない高次元な世界で高尚な人生を送っているような顔をしていますが、貴方がたは貴方がたが軽蔑しているであろう我々が過ごす一般社会に寄生していないと生きていけないのですよ?」というツッコミ。じつに滑稽です。
劇中、マスターは何度か「笑うこと」の重要性を説きます。ワタクシもその言葉に全く同意します。と言っても「笑ったら難病が治った」的な、じつに薄ボンヤリとしたナゾ科学的な意味合いにおいてではありません。ワタクシが言いたいのは、「笑い」という行為のもつ「批評性」――つまり「笑い」という行為のもつ「対象との距離性」――つまり、笑いとは、「対象に対して敬意の念を抱きつつも一定の距離の置かなければならない」――という意味において重要だと思うのです。

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と。ここで話を戻します。
ワタクシは、先に「この映画は、信仰による癒しからもう一段の展開が素晴らしかった」と書きました。では、その展開とはどのようなものなのか。それはつまり「ホントに重要なことは信仰ではなく信仰の向こう側にある」というものです。ってこう書くとなんだかありきたりのように思えますがそれでもやっぱ素晴らしかったのです。
じつはワタクシ、一番最後のフレディとマスターとの邂逅シーンで、マスターがとった行動に対して良い意味で失笑してしまいました。はたしてフレディはワタクシ同様、涙の奥で優しく失笑したのか。それは知り得ません。しかし、フレディが「かつて信奉していた対象に対して、敬意の念を抱きつつも一定の距離を置いて」「自らの生を歩みだした」のは間違いありません。ちなみにです、「かつて信奉していた」ことはちょー大事でして、その工程を踏まえたからこそ辿りつける境地――それは、そろいもそろってハナからマスターのことをバカにしているマスターの家族には辿り着くことの出来ない境地――にフレディは到達するのです。


というわけで、主人公フレディが様々な葛藤を経てたどり着いたこの映画のラストはホントホント最高級に美しいものでした。つっても、見た目もシチュエーションも全然ズタボロなんですけどね。なのに魅了されてしまった。でもさ、「傍目」からどう映ろうとそんなの関係ないんですよね。もっとも気高くもっとも美しいもの、それは「自由意志」なのですから。いや、ホントさ、ラストのあのシチュエーションとかマジで絶妙だわ。ヤバいわ。

あの女性……
あの女性だからこその美しさ……
本当にたまらん!!!!