「風立ちぬ」

【ここんとこ続いてますが例によって予告の感想から】

一番はじめにみた「風立ちぬ」の予告は、カット数が極端に少なかった為、『あれ?この映画、もしかしてまだ全然できてないんじゃね?結局間に合わんくて、後半は絵コンテそのまんま出してくんじゃね?』なんて思っちゃって、ちょーニヤニヤしながらこれは絶対観たいなあと思ったのでした。だって、そういう事故的な作品も面白いじゃん。なんですが、その後にみた4分バージョンは、一転、超絶に素晴らしくって『邪悪なこと考えちゃってすみません……!』と猛省、前向きな気持ちでこれは観ないと!と思ったのでした。ホントあの予告は素晴らしかった。関東大震災を経て大戦へと突入していく日本。美しい自然の風景と火の海に包まれる街。宙を舞う零戦と紙ひこうき。それらを見事にまとめ上げる荒井由実の「ひこうき雲」。宮崎駿監督は、震災を経て右傾化、というか白痴化する現代日本と真っ向から対峙する作品を作ろうとしているのではないか。旧予告がスカスカだったのはギリギリまで勝負してるからなんじゃないのか。これは大林宣彦監督の大奇作であり大傑作である「この空の花」と同様、ジジイのパトスが爆発してる大変な作品になっているのではないか――とちょー盛り上がったわけです。



【んで本編の感想】

まず。前半は、音楽や台詞を極力抑えた演出のおかげでしょうか、監督が切った絵コンテが滲み出てくるかのような素晴らしいカットがバッカンバッカンでてきます。最高。飛行シーンのフンワリ感は安定のクオリティですが、この作品においては――過去作ではあんまし感じたことなかったんですけど――強烈な絵コンテ力のほうにやられまくりでした。パッと見は大変地味ですが、でも、ホント「絵」だけで全然観れちゃう級の良さで、スカスカの予告みたとき感じた「絵コンテそのまんま」の可能性が、まさかこんな最良の形で提示されるとはまったく予想外でした。
予想外といえば、この映画の面白さは予告から想像したものとは全く違うものでした。いや、「違うもの」つーかなんつーか、『そうだわ!宮崎駿ってこういう人だったわ!』と思い出したというかなんというか。そう、この映画って宮崎駿さんそのものだと思うのです。じゃあ予想外じゃないんだけど、ま、とりあえず、主人公の堀越二郎宮崎駿さんのシンクロ率がハンパないのです。庵野監督の声優起用もちょー良くって、彼のたどたどしい声優具合は、堀越二郎の浮世離れっぷりにマッチしまくりで、じつに見事なチョイスだなあと感心しました。

ところで。この作品を観られた方の中には、「堀越二郎が殺人マシンを作ることに対してあまりにも無関心すぎる」ように映り、それがノイズになってらっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。でも、それって全然表層的なものにすぎず、というか、宮崎駿さんご本人が醸し出してきた「兵器好きの戦争嫌い」的態度に引っ張られているような気もします。というのは、ワタクシはそういった印象とは真逆で、この作品において宮崎駿さんは「技術の進化とその弊害」というべきものに対してきっちり向き合ってるように感じたのです。そして、そこにこそ感動した――どころか奮い立たされたのです。

つまり、この作品って「もののけ姫」における「タタラ場」の話とおんなじ内容なんだと思います。そして、それは宮崎駿さんの思想のキモなんだと思います。自然のことは圧倒的に好き。人間のことは圧倒的にキラい。しかし、だからといって、自然を克服しようとする人間、言い換えれば、文明社会を発展させようとする人間の姿勢を否定することはしない――という立ち位置。これって矛盾してないし偽善でもないと思います。いや、矛盾はあるんだけど、なんつーか、宮崎さんは、そういった、どうしようもない人間の「業」みたいなものと向き合っているように感じたのです。これってすんごい誠意ある態度ではないでしょうか。仮に、0か100かの選択をすりゃあ容易にカタルシスを得ることはできます。しかし、宮崎さんはそういうズルをしなかった。大震災や大戦という、圧倒的破壊から生じる「負のカタルシス」とでもいうべき描写を、ごくごく僅かなものに抑えているのもそういう理由からのように思えてなりません。パトスの爆発は無かった。しかし、恐るべき熱気が行間からはジトリジトリとにじみ出ている――

現代社会を生きる我々が享受している様々な文明の利器は、無数の屍と無数の瓦礫の上に成り立っています。その行為の胸糞悪さを踏まえ、クソはクソなりにより良い世界の誕生を目指し――といっても明確なゴールなんてみえないし、そして、みえないから、その道程で何回何十回何百何千回と『俺らやっぱクソだなあ』と思って挫折しそうになることは必至なわけです――が、それでもやっぱ、その都度立ち上がり、びっしゃびしゃのクソにまみれながらも、尚、生きねばならんのですよね。