ロッキー・ザ・ファイナル

この映画のエンドクレジットにはガツンとヤラれました。ただ単純に「切なくて泣ける」とかそういうのじゃなく、なんつうか…もっと……なんともいえん複雑な感情が沸き立つエンドクレジットでした。


ホント、あまりの素晴らしさに頭がおかしくなってしまい、ロッキーが再びリングにあがろうがあがろうまいがそんなことどうでもよく、なんなら「ロッキー・ザ・ファイナルは、過去作から一転、ロッキーが営むイタリアンレストランで数々の事件が起こって云々」というお話でも良かったんじゃないかと思ってしまうぐらい、大変良いエンドクレジットでした。だから---脳みそは治癒不能だったんじゃないの?とか、少なくとも過去そんな状態だったのにライセンス出すってどうなの?とか、試合の内容フロック要素強すぎない?とか、そんなのどうでもいいのです!

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「ロッキー」第1作って、所謂ニューシネマとの境目の作品、つまりは70年代の映画なんですよね。そっから今作まで30年の月日が経過しておるわけですな。すげーな。
そんだけの時間が経過すりゃあ、街の風景が様変わりするのは当然。ロッキーがエイドリアンとの思い出の場所を訪れると残酷すぎる時の流れが浮き彫りになります。エイドリアンが勤めてたペットショップは数年前に店閉めちゃったみたいで朽ち果ててたり、おなじみのスケート場が無くなってたりと、なかなか切ない場面が続きます。


んで、変わるのは街だけではない。人もまた変わります。ロッキーの息子の同僚共はなんともいえんヤなカンジのヴァイブス発するリア充ばっか。酒場でロッキーに因縁つけてくる女DQNは自己完結しまくりでまともにコミュニケーション取ることが出来ない。なんといいますか平成日本でも出くわすこと必至の絶妙なヤダ味を発する人物たちが続々登場してきます。つか、日本もアメリカも同じような変化を辿ってるんですな。しみじみ。つか、上手いよねスタローン。所謂下町然としたフィラデルフィアはもう無いんだなあというのがよく解ります。生き馬の目を抜くような環境は同じかもしれない。でもそこは、以前と較べるとより殺伐とした印象を受ける現代の寂れた地方都市へと変化してるわけですな。

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と、本編の内容はこれぐらいにしておきエンドクレジットのお話です。
(ボクシングの有様の変化とか、PPVのリアルさは大変ステキだったとか色々あるのですがまあそれはさておきとします)


本編が終わって、ま、当然のこととしてロッキーのテーマが流れます。実はここんとこは別のイミで味わい深く、正直プププと笑ってみてました。テレビドラマのエンドクレジットみたいなんだもん。


しかし、件の曲が終わってからは雰囲気が一転。そっからのエンドクレジットは目茶苦茶たまらんのですな。


なんといいますか単なる郷愁を越えた何かをみてしまったのです。


写真に収められたいつまでも変わらない街。でも現実の街は日々刻々と変化している。ということは、いまここにある景色もこれまでの景色同様いつか消えてしまう。
そして、先に書いたことと重複しますが、人もまた移ろい消えていく。一個人なんてモンは、時代の流れという大きなうねりに対して、抗うことなど出来やしない。みな一様にその濁流に飲み込まれて埋没していく。となると、平凡な個々人の人生にはなんの価値もないのか、なんの起伏もないのか、となったりするわけですが、勿論そんなことはない。どんな人間もすべからく本人にとってはドラマチックな人生を歩んでいる。
では、ロッキーの人生はどうだったのか。ロッキーの人生は、ごく一般の人々と較べるとずいぶん振幅の大きい栄光と挫折がありました。が、実はそれって、マクロな視点からみると市井の人々との差異は微々たるものにしかすぎない。いや、実際のところ、ロッキーの物語は現代の神話や英雄譚の類だと思います。しかし、今作のエンドクレジットからは「ロッキーも−我々同様−移ろい往く世界の中で過ごしていたんだなあ」という電波を傍受してしまいました。だからといって幻想が冷めたわけじゃない。むしろ逆で、なんていったらいいんだろう、我々市井の人間と同じ場所にある地続きの神話みたいなものを(勝手に)幻視し、それにより、ロッキーの物語は我々に、より寄り添う物語となり、つうこたつまり、終わりの在る物語となりまして、だからとっても切ないんだけど---でも切ないからこそ、より深みがあるイイ物語になったなあと思ったのです。