リトル・ランボーズ

例によって内容シャットアウトしときたい方は読まないでネ


〈主人公のウィル君(11才)ん家はプリマス同胞教会に所属〉
プリマス同胞教会の教義は、テレビを見るのも禁止されてるぐらい厳しいぜ。授業でテレビ使うときは教室の外に出ないといけないぜ〉
〈いかにも真面目そうなウィル君が、クソ悪ガキのリー・カーターと出会い、なんやらかやらあって一緒に映画を作ることになったぜ〉

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タイトルの「ランボー」は、あの「ランボー」。スタローンのランボー。いままでの人生で、映画どころかテレビとさえ無縁だったウィル君が初めてみた映像作品がランボー。そんなもんね---興奮しますわな。あれでしょ、ボクが初めてファミコンやった日の夜みたいなカンジでしょ。それは忘れもしない小4ん時。藤原くん家でマッピーやったんだよ。ドット絵が瞼に焼きついて離れなかったんだよ。マッピーがチカチカ動くサマと音楽がループして眠れなかったんだよ。アッパーになる何か強烈なモノを摂取したようなカンジだったんだよ。ウィル君もおそらく同じような体験だったんだろうね、だから『ボクはランボーの息子なんだ!』っていう妄想が炸裂するに到っちゃうのもよーくわかります。


そそそ。そう思っちゃう理由もあってさ、ウィル君のお父さん、事故で亡くなってるんだよね。ついでに書いとくと、カーターも両親不在なんだよ(唯一近くにいる肉親は兄貴だけ)。


これがなかなか興味深いんだよな。
ランボーが公開されたのは82年の後半。
82年。お父さんの不在。


お父さんのいない12才の少年ショーン君がスキニッズになる映画「THIS IS ENGLAND」は83年が舞台。どちらもフォークランド紛争直後が舞台なんだよな(というか「THIS IS ENGLAND」に関してはショーン君のお父さんは軍人で、フォークランド紛争に従軍中亡くなったという設定なんで、物語に直接的に関わってくる)。


いやね、どういうことかっつうと、国家の父性が強烈になってる時代が舞台になってんのに、市井では軒並みお父さんが不在っていうのがなんか不思議だなあと思ったわけです。なんだなんだ??当時のイギリスにお父さんはいなかったのか??っていう。


ここで一発妄想。


市井の父性が国家に奪われた結果訪れた混沌。「リトル・ランボーズ」において、失われた秩序を取り戻すための原動力となったのは、原理主義的な宗教ではなく、マネージメント原理主義ではなく、映画だ!!っていうわけね。
(「THIS IS ENGLAND」においては、トライブとしてのユースカルチャーが、主人公の魂を救うと思わせながら、決してそういう着地はみせず、ユースカルチャーの限界を感じさせます。トライブとしてのユースカルチャーは本質的には何かを変革する力が無い。といっても、ユースカルチャーなんてクソ、なんの役にも立たないっていいたいわけではない。ユースカルチャーに所属し幻滅するという通過儀礼を果たしアイデンティティを確立するのは、全く正しい姿勢だと思いますし、ボク、なによりそういうの大好きなんで!!!)

ルジャンドルは、映画評論家セルジュ・ダナイとの対話で、映画を「産業システムの詩的な留め具」と形容しつつ、それがマーケティングの「プロモーション」によって窒息している現状を憂いて、「われわれの詩的な法権利はどこにあるのか」と語りかけている。映画による統治性、それも考えられるかもしれない。


ここ最近、延々読んでた「夜戦と永遠」って本の中にかような記述があってさ、おもわず「さもありなん!」と叫んだよね。テンションあがったよね。


「夜戦と永遠」において、作者の佐々木中氏は、各種原理主義が発する腐臭について指摘する。教義・法の是非はさておこう、それは在るものとして考えよう、しかし、それを原理主義的に解釈することはクソすぎると。
それってホントその通りだと思う。原理主義っていうと縁遠いものに感じる人も多いかもしれないけど、全然そうじゃなくってさ、これってようするに批評性の欠落のことなんだよ。ある芸能人の言説・あるアーティストの言説・あるニュースの言説・それらに対して世間が生み出すボンヤリとした雰囲気、そういったモノをなんの疑問もなく受け取り、それをそのまんまなんの咀嚼もせず、キチガイみたくキラキラした目で語ること。そんな場面って日常ん中で結構出くわすじゃないですか。それってさ、所謂、イメージとしての原理主義者像と全く差異がないよね。


じゃあ何故、映画はそれから逃れ得るのか。


それはおそらく映画つうもんが持ってる「行間」がキモなんだろうね。いろんな人がいろんな読み取り出来るんだもん。そして、それは時として作者の意図を越えることがあるかもしれない。それぐらいイイ「行間」があるんだ。意見が違えば意見を酌み交わせばイイ。陳腐な批評だと一気に喰い破られる。というか、陳腐な批評は喰い破るべきだとさえ思ってたりする。だってさ、それこそ原理主義と袂を分かつための行為だと思うもの。そういったことが出来るのが映画。だから原理主義から逃走し易いんだろうね(そ。あくまで「し易い」に留まるんだけどね、くやしいけど)。


なんてウダウダ書いてますが、ようは、「リトル・ランボーズ」は、かように狂気じみた革命への妄想が暴走してしまうぐらい映画幻想が高まるファンタスティックな映画なわけです。

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実際の映画の中身について記述しておきますと、登場人物が軒並み「この人、全知全能の神かと思ってたけど実は世界の一部だったんだな…」って解るのが面白い。


クソガキのカーターは、学校ではDQN行為働きまくって超ヤなヤツだけど、家に帰ると兄貴に下僕のように使われてんだよね(それにはウルルときちゃう理由があるわけで、それが明らかになるシーンなどは…ホントにもう…堪りませんね)。


んで、フランスからやってきた超ヒップな留学生ディディエも実は---っていうところも結構グッときますよね。


『お前、同級生に友達いなくて、下級生ん中でリーダー的ポジション確立してたヤツと同類じゃんよ!!!wwwww』ってなりますよね。
『というか、お前も映画がないと廃人寸前のクソボンクラじゃねえか!!無条件で仲間とは思いたくないが、そういう意味では全然こっちサイドじゃねえか!!一応許してやるよ!!!wwww」ってなりますよね。


つかさ、「17歳の肖像」でも描かれてたけどさ、英国人の「フランス憧れ」ってなんなんだろね。面白いわー。

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個人的には、ビジュアル面から発せられるオシャレサブカル臭に対して、ちょっと「むむう…」って思うところあったけど、最終的にはカーター役のウィル・ポールター君に持っていかれました。彼超イイよね。とにかくさ---

最っっっ高のゴンタ顔。

あのゴンタ顔でさ、あんなにイイ泣き笑い見せられたらさ---
今、キーボード入力しながら思い出して泣きそうになったよ。
あんた最高だ!!