キック・アス

ネタバレしてんで注意ね


昨年の4月、英国ロンドンに行きました折、ちょうどかの国では「キック・アス」旋風が吹き荒れておりまして。街を見渡せばそこいら中にキック・アスとヒットガールの巨大看板が。んで、どこの書店でもコミックが1位か2位かにランクイン。まああああ〜〜なかなかスゴい状況でした(ちなみに書籍ランキングトップの座を争っていたのはバンクシーでした。「Exit Through the Gift Shop」楽しみですね)。


で。そのような強烈なロビー活動(?)の影響の結果、帰りしヒースロー空港内の書店でコミックを購入、機内で貪り読むことになったわけですが、いやーー衝撃でしたねー。なっかなか頭の狂った良作だなあ…と感心しきり。こんなにポップな絵で、こんなにエクストリームな表現(それも精神的にエクストリームな表現)をされてしまっては、いよいよ「日本のマンガ最高!他のはクソ!」っていう時代も終わりだな…と思いました。

で。帰ってきたら帰ってきたで、日本では別の意味でのキックアス旋風吹き荒れててさ。公開を巡って一部映画ファンが暴徒化するやうな状況でしたものねえ。ええ。ええ。

そんなこんなで、二重の熱気に呑みこまれ、ギンギンに幻想が高まっちゃったワタクシ、なんとか心を落ち着かせようと、とりあえず動画投稿サイトYOU TUBEで予告をみてみました…ら……『あれ…これ…明らかにコミックとヴァイブスが違うよ…』となってしまったのです。


それから早数ヶ月。年をまたいでこの度ようやく本編観ることができたんですけど…けど…けど…んで感想なんですけど…けど…けど…個人的にゃあ懸念していた以上にノッペリした映画になってるなあと思いました。

いろいろ要因あるんですけど、最大の要因は、ツイスト2発が変更されてるとこがデカい。

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まず一個目はレッドミストの伏線。というか、映画版のレッドミストは、登場した段階でどんな人物かが明らかにされてますから、全く伏線として機能してないんですが、コミックではレッドミストが正体明かすのは「転調」の部分に盛り込まれてるのですね。コミックではそれまでずーーっと正体不明。たしかにさ、レッドミストの伏線、マンガでは作りやすいけど実写じゃ難しいもんね。いくら覆面してても実写じゃ誰がレッドミストかなんて一発でわかるもんね。これはマンガの映画化にまつわる問題の一つでしょうね。


で、もう一個は多くの方がご指摘されてる通りのビッグ・ダディ改変。これは個人的には致命的だったなあ…。
映画のビッグダディ汚職警官の濡れ衣きせられた元警官という設定でしたが、原作では---「元警官だと思ってたけど〜〜〜、実はヒーロー好きのタダの会計士のおっさんでした。刺激的な人生歩んでみたかったんです。サーセン」という衝撃の告白が待っている。あれにはマジで愕然とした。


極日常のなかに潜む不満やらなんやら。そこにちょいと狂気をトッピングして誕生したのがビッグ・ダディ。そこにはイデオロギーなんて、無い(※)。

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原作では、この2本のツイストにより、旧来のヒーロー像に揺さぶりをかけてくる。


ナカマだと思ってたヒーローは、実は実利的な理由でヒーローを演じてた。マッチョで頼りがいありそうなヒーローは完全に狂人だった。ヒーローを信じてたのは自分だけで、自分の行動は限りなく狂人とシンクロしている。


そうやってデイヴはいきなし眼前に世界の現実を突き付けられる。
ヒーローとはなにか。
ヒーローになれば何か解決できんのか。
つか、お前なんなの??


2本のツイストを省いてしまった映画版「キック・アス」からはこのような問いは微塵も発せられない。じゃあ、クラシカルなヒーローみたく力を持ってしまったことに対する苦悩でもあった?

無い無い全然無い。つか、力手に入れてねーし。
体に鉄板入れたから、弱冠戦闘力上がったけど、所詮、鉄板入れて上昇する膂力などタカがしれたもの(というか、この描写に対する笑いの質、コミックと映画では大きく違ってて興味深い。コミックでは、実際だれにでも起こり得る可能性ん中での戦闘力アップを描くことで面白みを持たせてるんだけど、映画では、かようなごく初歩的な人体改造(?)の結果をあくまでフィクショナルに、あくまでマンガ的に描いている)

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ホント、映画のキック・アスって何をしたんだろう。彼はなんのリスクも払ってないよね。なのになんか知らんけど恩恵受けてる。なんなんだこれは。なんなんだこのノーリスク・ハイリターンは。ヒーローになるだけで人生順風満帆になるのか。そんな展開だからさ、当然「選ばれしものの恍惚と不安」などあろうわけがない。


すくなくとも原作のデイヴはこの感覚を味わっている。というか、実力もないのにリングに挙げられることの恐怖を味わいまくっている。そして思い知る。
「ヒーローになったところで何の解決にもならないし、というか、自分の預かり知らないところで人々はそれぞれの人生を送っている。ボクは何者でもない」ということを思い知る。


厳しいね。でもそれが人生。

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つかさ、原作のデイヴってさ、ビジュアル含め、完璧ネクラのキモヲタなわけ。陰欝なヴァイブスがビンビン出ててさ、マヂでヤなカンジなんだよね。対して、映画のキック・アスは90年代以降の愛されゆるフワ系オタク。
あのさ、「なんか濃ゆいイベントあるよ」つうからロフトプラスワンに行ったらさ、アメトークで「オタクでござい」つって登場するような芸人、それも全然ペラッペラな知識をひけらかすだけで大して面白くもない、けどそこそこ美形ではある芸人がメインのイベントだったらムカつきませんか。

キック・アス、テメーイケメンだしガタイもイイし、ゲイであろうがなかろうが女性と接近できてて、なんなんだよコノヤロー、羨ましすぎるわ。友達も面白くってなんかイイヤツっぽいし、なにより気軽にオナニー出来る環境だし、メッチャ恵まれててなんも不満ねーだろ!!つまり、キック・アスよ、おめーはリスクを払う必要なんてないんだよ。恵まれてんだから。全部持ってんだ!全部持ってんだよ!!それをなんだ?さらにヒーローになりたいだ??ざけんなよ!!これは、オレとは無縁のリア充のお話だよ!!』

って思っちゃってもさ、しょうがない部分あると思ってくれませんか。どうですか。許してもらえませんか。どうですか。
(あ。芸人像はあくまでイメージです。特定の誰かっていうわけではありませんのであしからず)

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原作読んだとき「日本のマンガも終わりだな…」と思ったのって、ようはこのコミック、日本の一部のキモヲタ連中の中からこそ出てきて欲しかったんだよ。身内だけの閉じた社会でさ、チャメチャメ楽しんでてさ、みるみるガラパゴス化、というよりフリークス化しつつある日本のマンガ界からこそこういう作品出てきて欲しかったんだよ。こういう作品を書くなり読むなりしてさ、


現実を直視しなきゃあマジで終わりなんじゃないかなあ。
一生夢の世界で生きるつもりか?

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冒頭、ヒーローコミック読みながらキャンパス内を一人トボトボ歩くデイヴ。でエンディングでは再び冴えないデイヴが登場し、その端を友達とキャッキャ楽しげに会話するクロエちゃんが通り過ぎる----といった夢オチ的展開でサンドイッチしてくれてたら許せたかもなあ。映画のキック・アスは、原作のデイヴが「夢想してたキック・アス」感。世の中、映画みたく甘くねーもん。

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(※) イデオロギーなんて無いといえば、コミックのヒットガールのコカイン吸引シーンが最高。「ヤバくなってらコレ使えってお父さんが言ってたんだ」「ええっ!??それってコカインじゃないの??」「大丈夫大丈夫。これ科学化合物だから」つって、鼻からシュピッとナゾを物質吸引して瞳孔開いちゃったりなんかする。オヤジどこまで狂ってんねん。ハハハ。と思わずにはいられない最高(=最低)の展開。