海炭市叙景

アメリカとカナダの国境の街に住むホワイトトラッシュとモホーク族の女性を描いた映画、「フローズン・リバー」。各所で高い評価受けている作品だが、個人的にはあまりノレず、観ながらこう思った---『これなら、日本を舞台にした同種の映画が作れるのではないのか。というより、作られるべきなのではないのか』

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すぐ近くに存在しているのに無きものとされている、マイノリティと貧困。
海炭市叙景」にはそれが、在る。

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かつて造船業で栄えた街、海炭市。今はもう繁栄の面影は無い。なんともいえぬ陰欝な雰囲気が漂う街。「曇天」という言葉が似合う街。小学生のとき、同和の授業で観た映画のようなざらついた質感の街。


海炭市叙景」はこの街の市井の人々の姿を5つの短編で綴っていく。


街の繁栄を担った造船所の大規模リストラ、その対象となってしまう兄。

再開発地区、近隣住人は皆立ち退いたその地区に一人住み続ける老婆。

妻の浮気を疑うプラネタリウム技師。

ガス屋を経営する、典型的な地方の小金持ち中小企業の若社長。

浄水器を売りに東京から出張してきた男。


微妙に重なり合う彼・彼女らのストーリー。特別な話は何もない。そこにあるのは地方都市の現実の姿。それも、自死を待つ地方都市の日常の姿。

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彼らはときには「閉塞感」の中で「怒り」や「憤り」を抱くこともある。しかし、その先には、極めて小さな事件(と呼ぶにはあまりにも小さすぎるのだが、とにかく事件)が待っており、感情の高ぶりを無効化してしまったりする。矮小な怒りをさらに矮小にみせてしまうような事件。逃げようとした途端、瞬時に出口を閉じてしまう世界。

彼らは、閉塞感が支配する街から逃れることは出来ないのか。そこには、「フローズン・リバー」で描かれるような、地図上に明記される国境は、ない。それにもかかわらず---海炭市に住まう人々は今居る場所から逃れることが出来ない。


そう。逃れることが出来ない。
「何か」が、ある。


土地の呪縛?
血の呪縛?
一体なんなんだろう。


仕事で一時帰省してきた男でさえ、呪縛に捕らわれている。彼は、笑う。この街を象徴するかのような場末のスナックで、限りなく陳腐なのだが同時にとても悲しい事件に出くわしたとき、彼は、笑う。自らに流れる血、抗い切ることの出来ない血をまざまざとみせつけられ、自嘲する。悲しさと間抜けさ。もしかしたら「死」にまつわることでさえ、どこか「間抜け」なものに映るかもしれない。間抜けな死。だからこそ、そこはかとなく悲しい。


国家や企業といった大きな力に翻弄される人々。卑小な価値観に固執する人々。
本当になんなんだろう。
どうすればいいんだろう。

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かくいう私も緩やかに死に向かう一地方都市に住む。そして閉塞感の中に生きている。しかし、それは「海炭市叙景」とは違う閉塞感かもしれない。


ガス屋の若社長の友人として登場する青年実業家笹川。「青年実業家」、そう呼ぶと聞こえは良いが、ようは田舎でのみ権勢を奮うことが出来る典型的なヤンキー。


私の住む街の閉塞感を生み出すのはヤンキー。
国家という概念が希薄で、つまりは、国家より近所の先輩後輩の関係を重視するヤンキー。


アッパーであろうがダウナーであろうが我々を捕えて離さない閉じた世界。
狩猟民族でいようが農耕民族でいようが我々を捕えて離さない閉じた世界。


国家の概念を持たずに生き続けるか。
国家に搾取され続けて生きるのか。


どちらかの選択肢しか用意されていないこの国の地方都市のどうしようもなさ。

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遠くで聞こえるヘリコプターの飛行音。
その音は、多くの人にとっては、「ただ単にへリコプターが飛んでいる音」でしか無い。しかし、特定の誰かにとっては、大きな意味を持つかもしれない。一生交わることは無いかもしれない、し、むしろその可能性が高い彼我。しかし、皆、等しく、どうしようもなさの下で生きている。