プリンセストヨトミ

綾瀬はるかのおっぱいが!
スローモーションで!
CGかっつうぐらい!
ブルンブルンに揺れる!
最高!!!


ってだけなのはアレなんで以下わりと真面目に感想を。

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〈その日大阪が全停止した〉
〈大阪全停止。その鍵を握るのは、トヨトミの末裔だった〉


同じ原作者の映画、「鴨川ホルモー」が存外面白く、今作も予告観るかぎりはなかなか面白そうだったのでサクッと観てきました。って言ってもさ、万城目大先生の作品なわけですからねえ。まあむにゃむにゃ。加えて、上記のようにスゲー風呂敷広げまくりの設定ブッ立ててらっしゃるわけですから、シナリオに粗が在ることなんて当然のこととして観にいってるんであしからず。
というわけで、ハードルわりと低めの状態で観に行っての感想なんですけど、うーーん、なんて言ったらいいんだろう、「クッソしょうもないわ!死ね!」ってレベルではなく、だからと言って「超面白かったー」って言うわけでもなく、なんつうかな、「もっと面白く出来たんじゃないかなあ、なーんか勿体ないよなあ」といった印象です。で、そのモヤモヤの原因を色々考えてたわけですが、とりあえずさ、演出が圧倒的に平坦なんだよな。

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例えばさ、堤真一演じる会計検査院の松平さんが、ついさっき監査してきた「社会法人OJO」にケータイ忘れたのに気付いて取りに帰るシーンがあるわけ。食事を中断し、OJOの建物に戻って呼び鈴をピンポンピンポンと鳴らし続ける松平さん。しかし、誰もでてこない。このままでは埒があかないと思い、そーっと建物の中に入ってみると――


――誰もいない。


ついさっきまで20数名が慌ただしくデスクワークしてたんだよ。それが――全く人の気配が無くなっちゃってる。これは何か……おかしい……って思いますよね。何か思いもよらぬことが起こってるんじゃないか……?ってなりますよね。試しにデスクの上に置いてある電話の受話器を取ってみる松平さん。


電話の回線がつながっていない。


おもむろにデスクの引き出しをガラッ!と開ける松平さん。


空っぽ。


引き出しを開ける! 空っぽ……
引き出しを開ける! 空っぽ……
引き出しを開ける! 空っぽ……


完全に……おかしい……
これは所謂「メアリ・セレスト号事件」的な展開、ジョジョでいうところの第3部「ストレングス」的な奇妙な展開……って文章にしてみるとまあまあ面白そうじゃないですか?なんだけどさあ、これがスゲー奇妙なんだけど、映画ん中ではあんまし不穏なカンジしないんだよな。ちっともスリリングじゃないんだよな。なんかノッペリしてんだよな。なんなんだろ、このカンジ。同様のことはギャグパートにもほとんど当てはまってさ、タメが無いからなーんかスルーしちゃうんだよな。「ここ面白いとこだよなあ。面白がらせようとしてるんだよなあ」って思うんだけど、全然面白くないのね。いやね、だからといって、別にアレなんですよ、「うわー……スベってるわー……痛々しいわー……」っていうんじゃないのね。なんかサラ〜〜ッと流されていってしまうの。

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このタメの無さはなんなんだろう。
これがテレビ屋の作る映画なのか?


先に書いたように、この映画、万城目先生原作なわけですから、プロットが甘々で、ちょっと稚拙かなあ?と思っちゃうのは已む無しなんです。でさ、そもそもがそのような状態なわけですから、それを映画化するとなるとまーた大変なことになるのは容易に想像出来ますよね。小説ん中では成立し得たことをビジュアル化すると「ないわー」ってなっちゃう――そんなこたあ、まあ多々あることですわ。
でもさ、それを「どうりゃああ」ってねじ伏せるのが監督のお仕事だったりするんじゃないでしょうかね。「いやいや、それは脚本家の仕事だろ」っていうご意見あるのは勿論解ります。ただ、今作においては脚本はそこまでグズグズだとは思わない。何度も書きますが、万城目大先生の原作を映画化するにあたって修正するのは大変な作業でしょうし、そういう意味では全然許容範囲内、よく頑張ってはったと思います(って実は原作読んでないんですけど)。


となるとさ、後はさ、やっぱ監督の意思、「オレこういう風に描きたい」「オレこういうこと描きたい」っていう作家性があるか否かが重要なんじゃないかなあと。それがあれば多少グズグズの脚本でもねじ伏せることが出来るんじゃないかな。
ちなみにですよ、インターネッツを駆使してみたところ、監督さんが今作の見どころ語ってはるのを発見したんです。監督さん、このようにおっしゃってはりました。

(プリンセストヨトミは) 「親子というテーマと、一致団結するということが2つの柱になっていると思います。親から子へ何かを伝えなくてはいけないんだとか、自分が大事なものを守るとか、普遍的なメッセージを持っています」

そうそう、そうなんですよ、それ全然解る。実際問題、その「親から子へ何かを伝えること」には感動しました。でもさ、ワタクシ的には「そこに到るまでの過程が弱いんじゃないかなあ」とも思った。その辺なんか曖昧になっちゃってるように思えたんです。原因がないとこに結果だけいわれてもさ、なんか、いかにもテレビ屋が言いそうな「体のイイだけの言葉」にしか聞こえないんだもん。せっかくイイ設定なのに、全然活かせてないじゃんってなったわけです。

つまりよ、ワタクシ的には、今作の根本のプロット、『日本の中で独立を画策する大阪』ってさ、アメリカ支配の中で独立を画策する日本のメタファーとして描かれてたらマジ傑作になってたんじゃないの?と思ったわけです。その過程で、我々が失ってしまった感覚―つまり世代を越えて伝えることの重要性―を描いていれば、その意味合いはもっともっとイイものになったのではないかあと思ったわけです。さらにさ、そこをグンと主張することによって、全然ボンヤリした存在である「プリンセストヨトミ」の存在意義も浮き上がってきますしね。象徴自体には意味が無くとも、それが在ることにより人が動くのですから。
そう、画面上で起こる事象は概ね一緒でもイイんだよ、おそらく。でも、そこに魂込められてたら受け取る印象変わってくるんじゃないかな。魂込めてないから、結果的に「つまんねー」って言う人が多くなってんじゃないかな。
あれなのかな、テレビ屋さんってそういう感覚ない人多いのかな。とくにフジテレビの人とか無さそうだよな。未だセーター肩にかけてそうだもんな。ううむ、考えれば考えるほど本当に勿体ない映画だと思うなあ。もし、現代日本「右翼版・長谷川和彦監督」(イメージですよ、イメージ)みたいな人が存在してて、その人が撮ってたら男泣き必死の名作になったと思うなあ。いや、勿論ルックスの部分をもうちょい調整してったらもっとマシになるんじゃないかなあとも思っているんですけどね(例えば、中井貴一の演説減らして、その分一個一個のシーンにタメ作るとかするだけでもっとイイカンジになりそうですけどねえ。あ。でもさ、エレベーターん中にババアの大群が乗り込んでくるとこは良かった。というか完全にヤラれた。「なんやねん、このシーン全然いらんやん。まあまあ面白いけど、超面白いわけでもないし、なんやねん」って思ったら、ヘエ、すみません。)