さや侍

「色々言いたいことあるけど全て※※師匠が語ってくれるでしょう!ww」って物言いみると虫唾が走っちゃったりするわけ。「貴方、自分ではなんも語ってないじゃないですか。でも、なんか語った気になってて一体なんなんですか。卑怯すぎやしませんか」って思っちゃうわけ。あとさ、これ「プリンセストヨトミ」の時にも感じたことなんだけど、例えば「亀山千広」とか「松本人志」とかが関わってる作品ならその段階で基本無条件で貶めてOKみたいな風潮あるよね。ファッショだよねえ。印象で語るのって危険だよねえ。いやまあしょうがないっちゃあしょうがないんだけど、それにしても冒頭述べたような意見に対しては断固否!!って言っていきたいです。全部自分の責任で語れ。はい、ごめんなさいね。


【文法】

オープニングの3人の刺客が登場するシーン、あれってさ、「命を狙われてるわけでもないのに、過剰におびえる野見さん」ってことでイイんですよね。「実際に背中切られたり、アタマ撃ち抜かれたりしたわけじゃないけど、そう思いこんじゃって、挙句、痛がったりさえしちゃうという、とっても愛くるしい野見さん」ってことでイイんですよね。あの……


演出がアレすぎてわかりにくいよ……!!


刺客のキャラ名が随時ババンッ!て出ることでいちいち引っかかりが出来てテンポ悪いし、うむーなーんか勿体ないんだなあ。頭撃ち抜かれる野見さんの絵とかステキだっただけになあ。なんというかなあ。
そもそも、あの刺客3人、実況キャラとして置かれてるんだろうけど、それにしてもなあ。あまりにもなあ。松本さんって、こと会話シーンになるととたんに古臭くなるんだよなあ。ちょっと前にNHKでやってたコント番組みた時にも思ったんだけど、松本さん、テレビに毒されちゃったのかな?? 説明過多っていうか、偏差値低いとこに合わせた語りをしすぎ。全部コトバで説明せんとわからんようような人達に合わせる必要なんてないよ(って昔の松本さんならそういう発言してただろうに)。

ドアタマ、疾走してる野見さんのカットが切り変わったら「実は全然速く走ってなかった」ってとことか「おお」って思ったし、野見さんがどじょうすくいしてるとこがスローモーションになるとこも面白かったし、つまりよ、この辺に勝因隠されてると思うんだよなあ。北野武が「アウトレイジ」において、お笑いのメソッドをバイオレンス描写に当てはめたのと逆でさ、映画のメソッドをお笑いに当てはめることで生まれる笑いってあると思うんだよね。さらにさ、映画である必然性も出てくるわけだからねえ。っていうかさ、そうすることで生まれるマジックってのもあってさ、実際の話、ワタクシが観た回では、全然フツーのシーンなのに何故かクスクス笑いだすおばちゃんとか出てきたんだよ。わかる?そうなるとさ、作品全体に魔法がかかるんだよ。作品全体に面白さが潜んでるような幻想生まれてくるんだよ。その辺どう考えてらっしゃるのかなあ。本当に勿体ないなあ。


【構成】

さや侍」って(おそらく)4部構成で作られてるんだけど、これ、3部構成で作ったら大分良くなりそうなんだよな。今の構成だと、終盤なにがなんでも冗長な印象受けるし、何よりも「結」の「どうりゃああああああああ!」感ハンパない。「転」の部分で一旦緊張の糸切れちゃってるし、なんなんだろうね、ピクサーだったら絶対通らないシナリオだろうね。でも、なんだかんだ言って、最後のアレは良かったです、「恥ずかしい……!!」と思いつつムニャムニャ力業で持っていかれました。
【追記】劇中起こった「ある出来事」の伝えられ方、アレね、ワタクシ的にはイイ行間があったと思います。観客が実際には目にしない「ある出来事」、それって「笑い」に重点を置いて具体的に映像としてみせることも出来たと思うんです(大変エクストリームな表現ではありますが)。でも、それをやっちゃうと、同時に「ああ。これはフィクションだな」って印象をおもくそ強めてしまう。それをせずに、我々の視線をあくまでも想像するしかない位置にとどめることで、結果、笑いと悲しみとエグ味のバランスが、奇跡的になんともいえん絶妙にイイ塩梅になってるなあ――と思ったりなんかしたわけです(そんなことムニャムニャ思ってると、後ろの席からスゲー爆音のイビキが聞こえてきて、これはなんとも良い劇場体験でありました)。
あ、んででね、構成の話に戻りますけど、「起」「承」の部分まではまあまあ良かったんですよ。そこまでは「野見さんアイドル映画」として全然成立してたと思います。ふんどし姿の野見さん、乳首が干し葡萄のような野見さん、上の前歯が1本しかない野見さん、全部可愛かった。でもさ、娘さんが主軸になって展開してくと野見さんが途端に失速するんだよな。
というわけで、ワタクシが思ったのはですね、今作は3部構成で練っていって、第2パートは『板尾と娘が心を通わせていく』のに加えて『でも、野見さんは臆病かつ空気がいまいち読めないんで全然暴走しちゃって云々』的展開にすればイイのになーと思ったわけです。そもそも松本さんって、そういう、なんていうの「気まずさの中の笑い」みたいなの得意なわけじゃん。んでさ、そういう風にしとけばよ、それ自体が終盤への伏線にもなると思うし、話も分断されずに唐突な印象受けないかもしれないし、なんかアレだなあ、考えれば考えるほど勿体ないなーーって気持ちで一杯になってきました。【追記】たとえばよ、いままでで一番イイとこまでいった(けどやっぱし失敗する)「芸」が、じつは野見さんの父子関係の琴線に触れるものだった為、そこで野見さんは武士としての生き様に目覚める――とかだったら結構まとまりよくなるんじゃないかなあと思った・り・も・し・た・ん・だ・け・ど、それだったら殿様の家のお話とカブってくるなあ。やっぱアレだな、シナリオの練り上げが圧倒的に足りないよなあ。

しかし、昨今の邦画の長大さってなんなのでしょうね。これは問題だよなあ。尺が先にありきなの?って思っちゃう意味不明の長尺作品多すぎるもんな。長けりゃイイっていう発想あるんでしょうかね。本当に意味がわからない。英国映画みたく100分もありゃあ充分でしょ。120分がデフォだとでも思ってるのでしょうか。音楽もそうだけど引き算こそ大事なのに、時間延ばすことを自己目的化してどうする。


【最後に】
ワタクシが観た回は結構沢山お客さん入ってて、それこそ老若男女さまざまな層の方がいらっしゃいました。で、皆笑ってるんだよ、笑ってるんだけど、その笑いが割と分断されてる印象があって、例えば、「野見さん万華鏡」なんかはお子さん大爆笑だったわけ。でも、一定の年齢層から上がからっきし。そういう意味では松本さん、ピンポイントでの正解は出してるわけではあるんですが……ねえ?
とりあえず、もし再びメガホン取られることがありましたら、今度は是非、観客の顔色窺わず松本人志その人にしか描けない俺節の笑い」を貫いた映画作ってほしいなと思いました。おそらくさ、それが出来たら必然的に「感動」もついてくるよ。あ、あとね、もう少し映画みたほうがイイかもしれませんね……。


な・ん・て、色々ウダウダ言ってきたわけですけど、ワタクシが思うに、おそらくさ、諸悪の根源はさ、高須なんだぜ。はやくあの調子ブッこいたクソ野郎と手を切ってくれませんか、松本さん(←おもいっきり印象で語っている)