SUPER 8 スーパー エイト

ごく簡単に。記録として。
どこまでがどうかわかんないから気になる人は観てから読んで下さい。

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「設定のアラ」が許せるか否かの基準が自分でも全然わかんなくって、その辺、ブログに認めることによって見えてくるかなー?なんていう思いあったのですけど、結局は混乱していく一方だったりしてます。
でも、アレかな。
ワタクシの場合はその基準って「笑えるか笑えないか」っていうのが大きな要因のような気がしてきた。そういうわけで「SUPER 8」は最高に面白かったです。

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初っ端のスゲー列車事故に関しては「んなもん皆死ぬだろ。全滅だろ。というか酷過ぎるだろ」なんてカンジで冷めてみてたんですけど、後半の大混乱――戦車、突然の主砲発射カーラーつけたまんまの女性の疾走とかは爆笑しながらみることができました。ようは爆笑できる転換点があったのです。
それはどこかっつうと――
小太り君の独白によって一気に気持ちが高ぶったわけです。
「くそー!!なんでお前やねん!!ワシやろ!ワシ!!ワシがどんな気持ちでおったと思ってんねん!!」
あのシーンが超笑えたわけです。あそこからグイグイと引きこまれてイイグルーヴ感じたんですよね。カメラ屋のあんちゃんとか最高だったなー。切迫した事態の中、律儀に(そしてシレーッと)CHICで再登場!とかアホすぎて惚れました。

しかしですよ、一連の少年達の会話、アレさ、少年達という可愛さ要素で中和されてる部分があると思うのですが、彼らが、もし18歳の童貞って設定だったら――面白すぎて本当に悶死してたと思います。所謂ジャド・アパトー的な。

なんて思ってたらクレジットにジャド・アパトーの名前出ててビビったんですよ。んで調べてみたら――

During post-production, Judd Apatow was shown some completed footage, which he praised as "awesome". J.J. Abrams subsequently placed Apatow in the "special thanks" section of the credits.


ですって。気になるわーーー。
というかジャド・アパトー版作ってくれないかな。

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あともう一個。こっちはわりと真面目に(っていつも真面目ですが)。
ワタクシが今作を観ながらウルウルしてしまった要素っていうのはこの言葉に通じるところがあったりするのです。

ダミアン・ハーストは今回の震災と津波に対してtwitterで、
”pictures from japan after earthquake look like from an exhibition of contemporary art. a tragic one though.”
“in the end it might be true that the nature is the greatest artist of us all. just so cruel at times.”
とつぶやいていた。


なんかさ、このタイミングでこういうこと書くのはアレだと思うんだけど、そう感じたことはしょうがないから書いておきます。


ダミアン・ハーストの言葉は一個の真理だと思います。全く同意します。そして、これは同時に「芸術はなんの為に存在してるのか?」っていう問題を内包しているとも思うのです。


人の世には、解決の糸口が微塵もみえず、ただ絶望するしかない事態がまま発生します。しかし、人は、その「どうしようもなさ」を芸術作品として昇華することが出来得るのではないか、と思うのです。別の言葉でいうと――芸術として「認識」することによって、どうしようもない感情を客観視し、その感情と一定の距離間を保つことが出来得るのではないか、と思うのです。それはなかなか悲しいことかもしれない。だけど、ポジティブな意味を持つこともあるんじゃないかな??ということです。そして、我々はいつかそれを出来る日が来るんだろうか?来ないとダメだよな?なんてことを思いながら観てたら泣けたっていうわけです。
何かを隠ぺいしてる空軍、わけもわからず右往左往する地方都市の住人、テレビでは原発事故のニュースが流れる――我々が、いつの日か、そのようなプロットを持った超絶に面白い映画を作り、そして、その作品を心の底から楽しんで観ることができる日がきたら、その時にはなんというか、上手い言葉がでてきませんが――(根本的な解決にはなりはしないですが)「どうしようもなさ」の僅か一部分にでも折り合いをつけることができるのではないか――なんて思ったのです。一度そう思ってしまうと、ご都合主義的展開だろうが、陰惨さのバランスが悪かろうが、あんまし気にならなくって「これは撮られるべくして撮られた映画なのかもしれない」そして「いま観るべき映画なのかもしれない」ってなり、とても愛おしくなったわけでした。エンドロールで流れるアレのように。


(ちなみに「自然は偉大なアーティスト」っていうのはアレだと思います。だって自然は人じゃないもの。というか、人が自然に近づこうとする行為こそが芸術だと思っています。だから不条理なことも呑みこまないといけないんだと思っています。全然話が逸れてますけど)