「SUPER 8 スーパー エイト」異聞(というか妄想)


先日のとはまた別で【「SUPER 8」の監督・えいぶらむすJ太郎さんのお話】という体での妄想です

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F県N町在住のJ太郎君(14歳)は大の映画好き。なかでもゾンビがでてくる映画が大好きで、放課後、ボンクラ仲間と集まってはゾンビ談義に花咲かせる毎日です。そんなある日、J太郎君は近所のTSUTAYAへ足を運びます。ずーっと貸し出し中になっているロメロの最新作「サバイバル・オブ・ザ・デッド」が返却されていないかチェックしに行くのです。


『ああ。今日もまた貸し出し中か。そもそも1本しかないから激戦になっちゃうんだよな。でも、この街にロメロが2本っていうのは供給過多な気もするな。うーん、難しい問題だな。それにしても、どんな人が借りてんだろうな。気になるな。その人も交えて映画談議したいな。ま、しかし今日はとりあえず別のモン借りてかえるべ』


なんて思っていますと、ばったり隣のクラスのL子さんと鉢合わせします。


「あら。J君ひさしぶり」
「あ。どうも。こんばんは」


J太郎君とL子さん、昔はおウチが隣同士だったのですが、L子さんちが新築して引っ越ししてからはすっかり疎遠に。お父さん同士が同級生ということもあり、小さい頃は二人でよく遊んだものですが――もうかれこれ一番最後に話したのっていつでしょう?小4のときぐらい?のレベルです。


「J君、よくくるの?意外と会わないね」
「うん。そうですね」
「なに。よそよそしい。何借りたの?もしかしてエッチなの借りてんじゃない?」
「違いますよ」
「ウソウソーほれほれ見せてよ。へー何これ全然知らない」
「フフフ(誇らしげな顔)」
「私ね、これ借りたんだー。最近コワい映画好きでさ」
「ハッ!!それはサバイバル・オブ・ザ・デッド!!」
「あ?知ってる?こわそうでしょー。どんなか楽しみだなー」

『L子さん、小さい頃は滅茶苦茶怖がりだったのになー。いつのまにこんな素晴らしい映画に関心を……ハッ……もしかしてアレか?クラスの誰かがL子さんサッカー部の先輩と付き合ってるとかなんとか言ってたよな……それ本当なのか?そいつの影響なのか?』
なんてカンジで悶々とするJ太郎君。そう思い始めると返す言葉を失い、挨拶そこそこにL子さんと別れることになりました。そもそも、L子さんは―飛びぬけて美人というわけではないけど―愛嬌あってクラスの人気者。日陰で暮らすJ太郎君とは正反対のポジションです。でもでも、これをきっかけにL子さんとフラットに会話できそうな気がしてきたJ太郎君。『明日は気軽に話かけてみよう!なにより向こうから話かけてきてくれたんだし!』と思ったのでした。


しかし、それは叶いませんでした。
翌日、あの地震がF県を襲ったのです。


J太郎君のお母さんは原発の近くの食堂で働いてらっしゃったのですが、その食堂は地震と同時に襲いかかった津波に呑みこまれ、お母さんは行方不明に。県警に勤めてらっしゃったお父さんは、地元の消防団とともに三日三晩命がけの救援活動を続け、再会できたのは16日の朝でした――

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それから早15年。
直後は、お母さんを失ったことに対するやり場のない感情をお父さんにぶつけることもありました。「おめーが早く駈けつけてたらお母さんは生きてたかもしれないんだよ!!」なんて無茶なことも言いました。しかし、それはもう昔の話。今では『なんてことを言ったんだ……お父さんこそ辛かったろうに……』と後悔しています。

そして――
J太郎君は、地震以来一度も会っていない同級生達のことが未だ頭をよぎります。J太郎君は早々に疎開したのに加え、その間に政府から強制退去の命令が出た為、アルバム等の思い出の品は全て自宅に放置したまま、誰とも連絡とることなく街を離れてしまったのです。勿論、L子さんともあれ以来会っていません。もし、あの時、L子さんともっとお話することができてたなら――もし、あの時、L子さんのメールアドレスを聞いてたなら――「サバイバル・オブ・ザ・デッド」の話ができたかな――なによりサッカー部の先輩とつきあってんのか確認できたかな――


地震以降、J太郎君の人生観は大きく変わりました。避難する途中、アタマにカーラーを巻いたまま地面に横たわるおばさんをみました。その時は、想像を絶する災厄にどこか現実味を失っていたのでしょう、『死というものは身近にあり、突然、そして不条理に襲いかかってくるものなのだなあ』ととても冷静に思いました。飼い主を失い右往左往する犬達もみました。逃げまどう犬の群れ。廃墟と化した街並みとともにみるその光景は人の世の終わりを表しているかのようでした。
J太郎君は、地震津波、そしてその後の原発事故により故郷を失いました。それに関しては、ずいぶんと長い間、心の中でドス黒い憎しみの炎が燃え続けていました。『ナゼこんなことに。誰がこんなことに』と。しかし、今では原発を全面的に非難するつもりはありません。街がそれで得ていたものがあったことを知ったからです。大事なのは、「何かを得ようとするときには必ずリスクを伴う」ということを知ること。ハンパなく取り返しのつかないアレと対峙することが大事だったのです。対峙してどうするか、が大事だったのです。


SUPER 8」は、J太郎君が自らの過酷な体験を「昇華」するために作った作品といえます。「あれだけ関係ない人が死んでも」尚「それをモチーフに作られなければならない作品」。芸術とはヒューマニズムを越えたところに在るもの、だからこそ、ある種の「癒し」を生み得るのではないでしょうか。思い出の中の「彼ら彼女ら」をスクリーンに甦らせること。友達との放課後のバカ話を再現すること。叶わなかった恋を成就させようとすること。なによりも映画の中ででもイイから「街に戻ろう」とすること。それは、自らの体験を自らと分かつことであり少し悲しいことかもしれません。でも、そうしなければならない理由があるのも解らなくはないでしょうか?正直、今作はそういった「思い」を全てキレイに交通整理した形で提示できているとはとても言い難い。それは、こと「完成度」という意味においてはマイナスの意味しか持たないでしょう。しかしです、それを――J太郎君が過去と「折り合い」をつけようと模索している姿としてみると――涙を禁じえなくないでしょうか。

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ちなみに――
J太郎君は全てを失ったわけではありません。唯一残った「モノ」があります。
地震の前日、TSUTAYAで借りたCDはどういうわけか疎開先に一緒に持ってきていました。「サバイバル・オブ・ザ・デッド」を借りることが出来なかったので、代わりに借りたCD。前の日の夜、ケーブルテレビで聞いてとても魅了された曲が収録されたアルバム「ベスト・オブ・ザ・ナック」――。J太郎君は、今はまだ戻ることが出来ない故郷のTSUTAYAに、いつかこのアルバムを返すことができる日が来るのを望んでいます。