Peace ピース

訪問介護業を営む柏木さんご夫婦のお仕事っぷりと、旦那さんが餌づけしてる猫ちゃん達の日常を記録した「観察映画」。そこから浮かび上がる「PEACE」とは。

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今作のような映画って、事前に沢山情報を入れてしまうと、いらぬバイアスかかってしまって、本来の味が損なわれてしまうかもしれませんので――というか、人それぞれの楽しみ方があると思いますので、もし、これから観るご予定ありましたら(ワタクシの感想も含め)読まずに観て頂くほうが良いかと思います。とっても野暮な発言ですけど。でもね――実際、ワタクシ、少し内容を耳にいれてから観たわけですが、正直「なんの情報も入れずにみてたらもっと驚きがあったかもなー」と思えるシーンがあった次第でして、うん、少しもったいないことしたなあと思いました。まあ、その辺はなんとも難しいところですけどね。


とりあえず、そんなこんなもありますので、ここでは、この映画の中でワタクシが一番心惹かれたパートに関する記述をするにとどめたいと思います。そのパートというのは、柏木さん(夫)と、植月さんという障害者の方とのやり取りのパート。ここが超絶に面白くって心の底からワクワクしたのです――

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では、具体的にそれはどのような場面だったかというと――『植月さんの靴に穴あいちゃったんで、柏木さんと二人で「靴流通センター」へ新しい靴を探しに行く』という、文字にしてみると「えっ?それだけ?」と拍子抜けしてしまうぐらい日常すぎる場面なのです。でも、ホント最高に面白かったのよ。


まずさ、お店に着いて、店頭のワゴンにワッサとおいてある激安シューズを二人してザクザク吟味してくんだけど、全然決まんないんだよね。「もうちょい底が厚いほうがイイ」「その厚さだったらすぐ破れる」「それだいぶイイけど、まだ厚さ足りない」とかなんとか言って全然決まんないの。でね、「厚さ」基準でウダウダ言いながら探してたら、植月さんの求めるポイントが次第に横滑りしてってさ、最終的には「靴裏のイボイボ」に対してスゲーこだわりみせてくるようになってくるんです。そのへんが本当よくって。「いや。そのイボイボは違う」「おっと。これはなかなかいいイボイボだな」なんつって。


「これ、300枚しかプレスされてないレア盤やで!」
「これ、ジョン・ロブやで!」
「これ、メンズエッグの通販とこに掲載されてた服と激似やで!」


結局さ、対象や価格が違ってても、求めてたモノを延々探してようやく見つけたときに脳みそから沁み出てくる物質って同じなのよね。おそらく。なんかさ、現代社会って、なにかと他人の顔色窺ってしまったりするわけじゃないですか。んで、油断してるとあっちゅうまに、水増しされて本質と違うとこにひっぱられてったりしがちじゃないですか。やれ「誰それが持ってた」やれ「リミテッドエディションだ」なんて言われて。なんといいますか、植月さんにとってはさ、靴流通センターで買った絶妙な塩梅のイボイボがついた靴こそがリミテッドエディションなわけでさ、なんかそういうの見ると、肩の荷がおりるというか、これ、ほんとイヤな言い方でアレなんですけど、正直大変癒されたわけです。

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で。


そんなこんながありまして、無事に買い物済ませて柏木さんの車で帰路につくわけですけど、その車中での会話がまた超興味深かったのです。

なんとなしにお話のテーマが「結婚」に及んでですね、そのことに関して植月さんがメチャ喋りはるところがカメラに収められてるんですけど、ぶっちゃけ、植月さんの滑舌の悪さはいかんともし難いわけで、全部が全部きっちり聞きとることは出来ない。といっても前後の文脈で大体わかるんですけどね。植月さん、延々と「そんなんカタワんとこに嫁きてくれても大変じゃからすぐ離婚してしまうがあ」みたいなことをおっしゃってはる。
ま、実はその内容はさておきでして、植月さんの喋り方のビート感がハンパなくって、そこにメチャクチャ惹かれたのです。語尾に勢いあるから韻脚強調してて超グルーヴィーですごい心地よいの。それに加えて満面の笑みをカメラに向けてはって、もうね、それだけでコミットしてる感満載で胸いっぱいになったのです。そして、なんといいますか、「結局、コミュニケーションってこういうことなんだろうな」と思ったのです。

つまりです、音の連なりによって生じる言語的な意味っていうものは、実はそんなに重要じゃなく、もっとなんつうの、音が発せられてること自体が重要っていうか、ようは、言葉を発するってことは―鳥の鳴き声みたく―音楽的なもんであって、「コミットしようとする意志」を持って音を発することこそ大事なんじゃないかなーなんて思ったのです。
そういや「コトバは歌から派生して生まれたんだ」なんて一文をどこかでチラ見したことあるのですが、なるほどさもありなんだなーと思いました。んでね、そういう風に考えるとさ、なんつか色々な障壁が崩れ落ちるような気がしてきまして、もうね、ズバッといっちゃいますと、「胸襟開いてコミットしようとすれば諸々なんとかなるんじゃねーかな」と、まるで高橋歩さん(←ってよく知らない。そういうことを軽々しく言いそうな人のイメージ)みたくキチガイじみたことさえ思ってしまいました――といってもアレですよ、人間なんて犬や猫と大差ないんじゃねーかなってことですよ。我々が意味があると思って発してる言葉は犬ちゃんや猫ちゃんのワンワンニャンニャンと大差がないんじゃないかな?っていう意味。そこに言語的な意味は無くっても、犬ちゃんや猫ちゃん、同種内では、概ね滞りなくきっちりとコミュニケーションとってるじゃん?やっぱ大差ないんじゃね?っていう意味。