悪魔の居場所 ―「悪魔をみた」―

「告白」という映画と「デスノート」というマンガ、なんつうか、根本的な部分がとても似てないです?チョー今さらですけど
どういうことかっつうと、「告白」と「デスノート」って、どちらも劇中においての命の価値が希薄で――といっても「ザ・ワールド・イズ・マイン」のように「命には平等に価値がない」的主張があるわけではなく、命に関わる主張そのものが希薄で、その役割が単なるマクガフィンとしてしか存在していないようにみえるのです。もう一度言います。両作品は「命の価値の無さ」を訴えているんじゃない。そういう感覚はハナから持ち合わせておらず、カンペキ無自覚に命を蔑ろにしている。だから、「面白かったら何をやってもいいでしょ」という感覚すら無いのではないでしょうか。それを注意したところで「なんで怒られるの?」とキョトンとされるのではないでしょうか。病理が深いですよね。ハハハ。

そんなこんなで、ワタクシは「デスノート」というマンガが嫌いなんですけど、とくに許せないなあと思ったのが「死の場面」をきっちり描いていないところだったりします。そういう姿勢ってヘドが出ますね。で。「告白」も同様の批判なされてましたよね。でも、じつは「告白」に関してはそこまで嫌悪を感じなかった。というか、「告白」に関しては、逆に、『この映画、散々けなされてたけど面白いやん。海外で受けたのもわかるわ』とさえ思ったのです。なんなんでしょう、この差は。
本質的にはどちらも大変胸糞悪い作品。片っぽはそのまま嫌悪を感じる。でも、片っぽは――フツーの感覚だったら、倫理的な理由でストップかけてしまいそうな表現やアイデアが、なんの躊躇も無く「さも良いアイデア」として取り入れられ、出来あがった作品に対しては、それと同様、無自覚のヤダ味の部分が、やはり、とくに疑問視されることなく(=自覚されることなく)評価されておるわけで、これって、なんといいますか、オウム事件以降、じわりじわりと日本社会に沁み込んでった、自覚なき暗黒の精神性を(おそらく渦中にいる人も皆全く意図せず)体現してるようで面白いなあ――といったカンジで、作品自体になんらかの意味を見出して―具体的には、上述のとおり「時代性を携えててイイ」という意味を見出して―評価してあげたくなるぐらい面白く感じたわけです(※1)。
この両者の差ってなんなんでしょう。ワタクシはそれを上手く表現する術を知りません。だから、抽象的な表現しか出来ず、とてももどかしいのですが、今はこういうふうにしかいえないです。『「デスノート」はデッサン力はあるけどペンの抜き差しにグルーヴが無いから、結果、マンガ的なグルーヴを感じなかった』『「告白」はグルーヴを感じた』と。うーん、この感覚、ホントどういえばよいのでしょうか。真剣にご教示願いたいです。むむむ。

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んで「悪魔を見た」。

DVDの裏ジャケみますと、「殺人の追憶」や「チェイサー」の名前が挙げられていましたが(※2)、いやいや、この映画が比較されるべきは、それらの正統派実録風猟奇殺人事件映画ではなく「告白」だと思うのです。つまり、この作品、リアリティや命の価値はさておきで、次から次へと刺激的な事象を撒き散らしておいて、興味の持続を図る――そんな構成になっているのです。ですから、登場人物たちは、必然的にサスペンスを盛り上げるためだけに行動を起こしていきます。と、ここでとりあえず、おおまかにプロット書いておきますと――


変態殺人鬼ギンチョルさんに婚約者を惨殺された主人公イ・ビョンホン。彼は、早々ギンチョルさんの居場所を発見し一旦ブチのめすのですが、その場ではどういうわけかギンチョルさんを逃がします。イビョンホン、じつはその折、ギンチョルさんの体内に発信器をとりつけており、彼の居場所がつねにわかるようにしていたのです。ギンチョルさんが悪いことしようとしたらイビョンホンが颯爽と現れて暴行。そして再度リリース。懲りずに暴れるギンチョルさん。再度キャッチ&リリース。え!?もう一回リリースするの!?マジで!??さてさて、この事件の行きつく先は――

というお話なんですけど、これがもううううううううマッチポンプ感全開なんですね。ヒドい。ヒドすぎます。だってね、イビョンホンがギンチョルさんを解放した結果―当然の話なんですけど―全然無関係の女性がレイプ寸前に追い込まれたりしますからね。つかさ、その女性、ギンチョルさんのチンポくわえさせられてますからね。そこまでやられちゃってますからね。で、くわえさせられた段階で、ようやくイビョンホンが登場して「テメー何やってんだ!ゴルア!」つってギンチョルさんに暴行加えますからね。そんなもん、「イヤイヤイヤ……それ貴方がリリースしたから……」ってなりますよね。
というかです、そもそも、リリースされたギンチョルさんが一番最初に遭遇するタクシーの運転手さんたちだってさ、たまたま同類だったから、「ああいう目」に遭っても全然問題なかったに描かれてますけど、例えば、あのドライバーが、妻子を抱えたごくフツーの人だったらどうだったんでしょう。それは痛ましすぎますよね。でも、その可能性は十分ありますよね。というか、そっちの可能性のほうが全然高いですよね。でも、イビョンホンは、ギンチョルさんを解放することによって、全然無関係の善良な市民に被害が及ぶ可能性を微塵も考えてない模様です。スゲーな、イビョンホン。
と、そんな展開なわけですから、一番最後のシーンに対しても――あのう……貴方が私怨のために狂犬を街に放した結果、お亡くなりになられた方は貴方の親族以外にも沢山いるわけですし、なんつうかな、そこでやり切れなくなって泣くぐらいのハンチクな意思なら復讐なんてしないほうがよかったのでは……と思ってしまいます。そんなザマでは、無関係に死んでいった人たちの魂が報われなさすぎですよね。


結局、今作の問題って、タクシードライバー強殺シーンに集約されてるように思います。「ギンチョルさんにブッ殺されるタクシードライバーは所詮外道だった」というエクスキューズをいれてしまったことによって――それはイビョンホンの行動を倫理的にOKなものにしようとしたのでしょうが――むしろ逆の効果が生まれていて、今作全体に対して、巨大なクエスチョンマークが浮かんじゃう要因になってるように思います。

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先に、ワタクシは「イビョンホンはギンチョルさんを解放することによって、全然無関係の善良な市民に被害が及ぶ可能性を考えなかった」と書きました。いや、じつはそんなこと全然考えなくてもいいのです。復讐する以上は、自らの魂を悪魔に売り渡さなければならない。目的のためなら何が起こってもいい。あの外道と同じ地点まで堕ちなければならない――つまり、今作って、主人公が外道に堕ちることで、はじめて倫理的にOKになると思うのです。無関係の被害者への同情的観点・主人公の行動に対するエクスキューズを描くことは逆効果でしかない。だから、「ギンチョルさんによるタクシードライバー強殺」シーンは、むしろ、全然無関係の善良な市民が惨殺されるところを描くべきだったのではないかと思います。自分の身勝手で他人の命が失われても尚、復讐を慣行しようとする主人公の狂気――を明確に描くべきだったのではないかと思います。
重複しますが、イビョンホンがギンチョルさんを解放したことによって、無関係に惨殺されてった方々の魂って、じつは全然報われなくてもイイのです。大事なのは、イビョンホンの復讐に対する意思なのです。途中、何が起ころうがそんなことはさておきで、目的遂行のために暴走し切った果てでの涙なら全然イイのです。イビョンホンは、ギンチョルさんの暴挙に対していちいち感情の起伏を持ちこむ必要は微塵もないのです。そんなこと描かなくても、我々はイビョンホンの苦悩を行間から充分知り得るのです。なのに――もちろんタイトルが「悪魔を見た」なわけですから、そういうつもりで描いてらっしゃるのでしょうが――タクシードライバーのシーンを入れることによって、その辺りがボヤけちゃってるように思うのです――


その1点のせいで、今作は一気に「デスノート」や「告白」と同じ地点に堕ちちゃってるような気がします。でも、大きく違うところがあって、それはなにかといいますと、エクストリーム表現がじつに素晴らしいのです。それに関しては全く遠慮なし。「直接的には描かず、でも不穏な空気感は醸し出してます」といったレベルですらありません。
ギロチン使用しての首チョンパ始め、人体は見事に解体されますし、オッパイは豊富に映りますし、立ちバックはありますし、ウンコが異常にリアルですし、気合い十分でじつに素晴らしいです。実際、そんなこんなもあり、この映画、超絶に引きが強くて大変面白いのです。例え、マッチポンプ感全開であろうとも、倫理的に不快であろうとも(※3)、映画的なグルーヴが秀逸でグイグイ引きこまれてしまいました。極私的な話になりますが、ワタクシ、この映画を夕食前に観始めたのですが、当初の計画では、途中で一旦休憩して美味しいご飯を食べようかと思ってたんですけど、結局、続きが気になってしまい、一気に最後までみてしまったぐらいだったのです。食欲にもまさる映画的魅力。
しかし、映画の魅力のキモってどこにあるんでしょうね。もちろん、それは人それぞれなのですが、なんともナゾが深まりました。さっきの話と真逆になってしまうのですけど、じつはエクストリーム表現度ってのはキモではないわけで、それら諸々の要素を取っ払った根っこにナニかがあるんですよね。でも、その正体がわからない。真剣にご教示願いたいです。むむむ。

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最後に。
個人的に常々「じつに悪魔的行為だなあ」と思う事象があって、それがたまたま今作に関わる部分で目についたので記しておきます。それは――先に挙げた裏ジャケの宣伝文句的な思考です。パッと見おんなじだからっつってミソもクソも混同してしまう感覚。たとえば―そういうものが在ると仮定して―パック詰めのウンコが存在したとしたら、それを反射的に口にいれて、挙句「いやいや。これ、パッケージにミソって書いてあったからこれミソですよ。誰それもミソだっつってたし」と言ってしまう批評性の欠落具合、そういうのって邪悪だなあと思うのです。もちろん、トイレタンクの上にティッシュをかぶしたミソが置いてあるのをみて、よく確かめもせずに「ぎゃあああ!ウンコー!!」つうのも全く同じ行為ですので(あ。どちらがミソだ、どちらがウンコだって言いたいわけではありませんのであしからず)。

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(※1)この2作品、触れた時期が違うから、いっちゃえば「デスノート」で耐性が出来てたから「告白」は楽しめたという可能性はありますね。あとは作品に対する「ハードル問題」って大きいですよね。全てはそこに帰着するのではと思うことさえあります。


(※2)「オールドボーイ」の名前も挙げられてたのですが、こちらはは未見。もしかしたら「オールドボーイ」は「悪魔を見た」系の可能性あります。どうなんでしょう。


(※3)ですから、念のために書いておきますけど、「倫理的に不快」というのは「意味もなく人が殺される」のがイヤなんじゃなくって、「意味もなく人が殺されることの如何に対する作品自体の無自覚さ」がイヤなのです。「劇中の登場人物の無自覚さ」ではありません。作り手の無自覚さです。「おまえは……自分が『悪』だと気づいていない……もっともドス黒い『悪』だ……」ってヤツです。