聖書を捨てよ、町に出よう―「スーパー!」―

ワタクシ、映画版の「キック・アス」に関しては大変憤慨しておりまして、その理由というのは、とりあえず原作を先に読んでいたことによるところが大きいのだと思うのですが、ようするに、原作の「キック・アス」っていうのは「おい!引きこもりのオメーら!オメーらな、ネット上では万能感一杯でいろんなことにイチャモンつけてっけど、オメーら外界に出たらどうなると思ってんだよ!それを今からシュミレーションしてみせてやるよ!」っていう作品なんですよね。んで「所詮オメーらなんて今まで大した努力もしてねーんだからボッコボコにされるのは当然なんだよ!でもな、その果てで見えてきた世界ってあるだろ!!ああん!?わかったかコノ野郎!!」っていう作品なんですよね。なんですけど、映画版の「キック・アス」って、それとは真逆のテイストでして、いわばヲタでいることが悪い意味で了承されてしまう超絶なぬるま湯映画にみえたんですよね。


奥さんをドラッグディーラーに奪われた冴えない中年オヤジがヒーローになるという作品「スーパー!」。パッと聞いたカンジでは「キック・アス」と似たような作品みたく思えますけど実際はどのような作品だったのでしょう。

                                                                        • -


まず、今作を観始めて一番最初に驚いたのは、主人公のオジサンが序盤から狂っているところです。予告を観る限りでは、もっとコメディ調の描き方してるのかなあと思ったら、あんましそんなことなくってわりと最初っからキチガイのオーラをビンビンに発しています。それも日常に潜んでいる系のキチガイ。ヤバい。ヤバすぎます。なんですけど、「もし、ヒーローというものが現実の社会に登場したとしたら、それはキチガイの類いである可能性が高い」というのをいやがおうにも知らしめてくれる良い幕開けだと思います。
案の定、オジサンは神の啓示(=所謂、電波)を傍受し、自家製のコスチュームを装着、レンチを手にして、あくまで自分が悪人だと思った人たちの顔面を片っ端から殴打していきます。って、文字にしてみるとやっぱスゴいですね。軽く一線を越えてしまってますね。じつに素晴らしいです。そして、その襲撃シーンが時にはコミック調で描かれるのですが、これがまた良いなーと思いまして、つまり、オジサンがヒーローとして闘ってる時って「現実」ではなく夢の世界にいるんだなーっていう印象を受けるのです。うーん、完全にキチガイですね。


さて、物語は、オジサンがエレン・ペイジ演じるコミック店の従業員と接近して以降、急激にドライヴ感を増していきます。
ちなみに、エレン・ペイジもオジサンと同様キチガイの類いなのですが、この二人、おんなじキチガイでも本質的な部分で大きな違いがあり、その差異を描くことによって、オジサンの狂気の「質」がより明確になっていきます。つまり、オジサンの狂気とは「法に捕われすぎた果てでの狂気」であり、「無法の世界」での狂気ではないのです。

 

                                                                        • -


ところで、今作を語る上で「タクシードライバー」の名前を挙げてらっしゃるのをまま目にします。そして、その理由もわかります。オジサンの暴走の行きつく先と、「タクシードライバー」の主人公トラヴィスの行きつく先をダブらせてみてらっしゃるのだと思います。しかし、ワタクシはそうはおもわず、トラヴィスと同じカテゴリーに入るのはオジサンではなく、どっちかっつうと、エレン・ペイジのほうだと思うのですがいかがでしょう。
タクシードライバー」のトラヴィスの「世界観」は、色々すったもんだありますが、結局閉じたままで終わります。変化は起こるのですが、それは世界(というか社会)のほうがトラビスの捉え方を変えたにすぎない。つまり、「タクシードライバー」って、「現実の世界」が「無法の世界」により沿い始めるという非常にアイロニカルなお話なわけです。
対して「スーパー!」はどうかというと――オジサン自身が世界の捉え方を変えるのですよね。その一点において全然トラヴィスとは別モンだと思います。そして、エレン・ペイジはどうなるかというと――なんつか、その辺にこの映画のキモが隠されているような気がします。

                                                                        • -


映画の冒頭、オジサンは「これまでの人生でカンペキだった瞬間なんてたった2回だけしか無かった」といいます。でも、物語の最後でオジサンは気づくんですよね。実際はそうじゃない。劇的な事件なんて起こらなくたって、ただフツーに生きているだけで、毎日――どころか一瞬一瞬――輝かしい何かと触れ合ってるということに。結局、人生っていうもんはフォーカスの当て方が問題なのであって、そこに気付くと人生というものは「スーパー」な瞬間の連続だということを知るわけです。神の作りし法を遵守してきたオジサン、それって――本人は否定するでしょうが――引きこもってブチブチ文句言ってるのと一緒で、実はとても居心地イイ状態だったのかもしれません。でも、オジサンはそっから一歩踏み出し、そして、ズタボロになった果てに真理と思われることに辿りつくんですよね。

それを得るためにオジサンが払った代償はあまりにも大きなものに映るかもしれません。しかし、そのプロセスこそが大事なのではないでしょうか。
例えば、ベッキーという女性芸能人が「世界は一瞬一瞬輝いている」という発言してらっしゃるのを目にしますと――大変申し訳ないのですが――正直イラッとなりそうです。何故なんでしょう。それはベッキーの発言からは「プロセス無き盲信=批評性無き盲信」が垣間見えるからではないでしょうか。ワタクシは、この「盲信」なるものが、世界でもっとも忌むべき行為だと思っています。「聖書」だろうが「コーラン」だろうが「ポジティブな思考」だろうが「ヲタ」だろうがなんだろうがそんなことは全然関係ない。善きこと悪しきこととかそんなこと全然関係ない。なにかを盲信してることこそ最も罪深いことであって、その行為は、色んな事物を巻きこみつつ世界と地獄とを繋げる行為なのではないだろうかとさえ思っていたりします。
ワタクシはタイトルに「聖書を捨てよ、町へ出よう」と書きました。これは「聖書なんて読むな」と言いたいわけではないのです。「聖書を読むな」っていうのも一種の「盲信」ですから。大事なのは「聖書に捕われる必要はない」と言うことなんですよね。