聖シュージ伝 ―「CUT」―

シネフィルってなんなんですかね。よく解っていません。でも、朧げにこういうふうに捉えられてんのかな?というイメージはありまして――
某日、昨年公開された「猿の惑星」の様々な感想を読んでましたら「今回の猿の惑星自由の女神が出てこないからダメ。全く評価できない」というご意見を目にしまして。あのさ……自由の女神の在る無しって作品の出来と関係あります?それってムダに知識に囚われてるカンジがするんですけど。つか、自由の女神でてるし
なんというか、こういうカンジで、知識に囚われて自家中毒を起こしちゃった結果どうも本質からずれちゃってんじゃない?と思わせてくれるご意見というのが「蔑称として使われる際のシネフィル的映画観」なのかなあと思うのです。え?シネフィルは「猿の惑星」なんて観ない??じゃあ「猿の惑星自由の女神が出ないからダメ」っていう評はじつに「秘宝」的な評ですね――
そう。そうなんですよ。「本質を捉えずに自家中毒を起こしてる思考」ってのは「蔑称としてのシネフィル」だけに限らない。もうちょい詳しく書くと「本質を捉えようとする意思はなく、原典の表層をなぞるだけにとどまり、ただ単にそのロジックを無自覚的に弄して自分の慰みとする思考」ってのはシネフィルだけに限らない。それなのに、「だからシネフィルは」とか「だから秘宝は」ってカンジで揶愉するのって――貴方がたが批判の対象としている「シネフィル的なもの」や「秘宝的なもの」と同じ地点に堕ちているんじゃないですか?と思うのです。
って、じゃあさ、「ホンモノのシネフィル」「純粋なシネフィル」って存在してるのでしょうか。

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「CUT」という映画は、主人公の秀二さんが、莫大な借金を返すためにボッコボコに殴られ続けるのと同時に、秀二さんのシネフィルっぷりが語られる映画です。これが滅法面白い。とくに秀二さんの「シネフィル描写」が最高に面白い。そのサマは完全に、「信仰」として描かれてんですよね。

秀二さんが、いにしえの映画監督のお墓参りにいくサマは、聖パウロ聖フランシスコの聖遺物を拝みにいくのと完全に同じです(まさしく聖地巡礼!)。秀二さんが、ボッコボコに殴られる際、自分の愛する作品の年表をブツブツ唱えるのは、鞭を打たれながら聖書の一説を唱える信者の姿と完全に同じです。そして、決定的なのは、秀二さん、「神の啓示」ならぬ「映画の啓示」を受けるわけで、もうこうなってくると、秀二さんの主張は以下のようにしか聞こえません――


いまや、信仰は俗人にとって耳障りのイイ言葉しか届けない、いわば、娯楽に成り下がっている!!!
信仰は一時の慰みや快楽、そして、それと引き替えに得る僅かな金銭のためにあるんじゃない!!!
信仰は神のためにあるのです!!!
しかし、この堕落した世界においても、未だホンモノの信仰を保ち続けてらっしゃる方々もいる!!!
彼らに目を向けてください!!!!
彼らに目を向けてください!!!!!
彼らに目を向けてください!!!!!!


カルト?
うん。なんともカルトっぽいですね。って、じゃあさ、「ホンモノの信仰」「純粋な信仰」って存在してるんでしょうか。

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さて。
震災直後、映画評論家の町山智浩さんが自身のご出演されてるラジオ番組で以下のようなお話をされていました。うろ覚えなんですけど大体こんなカンジ――
アメリカのキリスト教原理主義者の面々は常日頃『信仰のない人々は大洪水によって滅ぼされる運命にある』と言っていました。そうした狂信的な言葉を吐きまくっていた彼彼女らが、東北の津波の映像を目にした時、なんと被害に遭われた方々に対して祈りを捧げていたのです。その時、ボクは神の存在を信じました」と。


ワタクシはその話を聞いた時こう思いました。
信仰とは――他者を迫害するために生まれたんじゃなく――あくまでも万物に安らぎを与えるために生まれたのではなかろうか――もし、その地点に辿り着くことが出来たなら――それこそがホンモノの信仰なのではなかろうか――そもそも「誰かを憎む」為のモノとして誕生したのだとしたら、ここまで普遍的なモノとして存在してきたとは思えない――つまり、本質的には「良きモノ」だからこそ未だに力を持っているのではないか――と。
勿論、「万物に安らぎを与える」ことなんて不可能なことです。でもさ、不可能だからといって反射的に嘲笑することはできないよなあとも思うのです。ホントに真摯に信仰と向き合う方がいるとすれば、その方の行いは、多大な矛盾を自覚しつつ、それでもなお、前進しようとするわけですから、そこには凄まじい苦悶とそれを乗り越えようとする凄まじいエネルギーが必要とされるわけですよね。そんなもんなかなか出来んよね。誰も出来んことをしてる、それだけでもワタクシは立派なことだなあと思うんですけど。例えば、ワタクシは「自らに課せられた原罪を戒める為、ありえんレベルの肉体的苦痛の中に身をおくこと」が出来るかといったら――絶対出来ないですもん(逆にいえばさ、そういう行為―というか決意―を伴わないものは「信仰」としては危ういモノなのかもしれません)。


ま、ようするにです、「ホンモノの信仰」や「ホンモノのシネフィル」なんてモノはないかもしれないけど、在ると仮定して、そこに近づこうとする行為は全然否定できないし、実際、その行為から発られるポジティブな熱量は存在すると思うのです。
 

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「CUT」の中には、シネフィルに愛される作品が実際に使われてるシーンがいくつかあります。少なくとも、ワタクシはそれらのシーンを観てシネフィルの愛する作品群に大変興味を持ちました。フツーにとても面白そうだなと思いました。観たことない作品は「観てみたいな」と思いましたし、観たことある作品は「スクリーンで観てみたいな」と思いました。秀二さん(というか監督)は「娯楽に成り下がっていないホンモノの映画を知ってください!」と言いました。そこには、間違いなく沢山の矛盾が潜んでいます。でも、監督の抽出したシネフィルの愛する作品の断片にはその矛盾を突き抜けるポジティブな熱量があると思うのです。それは、町山さんが様々な矛盾を知りつつもその向こう側に見た神と同じモンじゃないでしょうか。

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