魂のディアスポラ ―「サウダーヂ」―

技術的な完成度高かったらグルーヴがあるかっつっったら全然そんなことないわけでさ、結局そこって正比例するもんじゃねーし、つかなんなら、普段はグルーヴのキモだと思ってる要素が、ヨレッヨレだったりスッカスカだったとしても、なんかわかんねーけど魂を揺さぶるなにかが宿ることってフツーにあるんスよね。
音楽聴いてたらそういうモンに出会う瞬間が多々あると思うんスけど、とりあえず、日本語のヒップホップ関連でいっとくと、数年前、「ブレス式」つうネットラジオ番組で紹介されてた、当時15才のフィメールラッパー・レイリ女史の曲が一番キたっスね。その子、申し訳ないけどビジュアルは全然アレだし、ライミングのテクニックも全然アレだったんだけど、イイ意味でチョーーーヤバかったんスよね。それってさ、「アイドルのほつれ」っつーのとはまた別種でさ、なんつーのかな――アウトサイダーアートが持ってる剥き出しのパワーつうの?ナゲッツ的パワーっつうの?なんかそういうのあるじゃないスか?ああいうナゾの魅力があったんスよね。あれはマヂ衝撃だったっスね。あういうのってさ、もし、メジャーのレコード会社が見初めてもさ、絶対パッケージング出来ないモンなんスよね。メジャーらしく見栄え良くしようと精製し始めた瞬間、途端に魅力失うんスよね。マヂ不思議なもんスよね。

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「サウダーヂ」ってさ、正直、完パケ前のモノって印象だったっスね。デモテープ的っつうかなんつーかそんなカンジ。「このシーンいらなくね?全然削ってもいいんじゃね?」ってとことか「このシーンいくらなんでも長すぎね?」ってとことか「このシーンさすがに撮り直したほうがいいんじゃね?」ってとことか、とにかくそういうシーンがバンバンあったっスね。それがまた断片的だったりして、つか実際、何を喋ってるかわかんなかったりして「これでいいの?」って思ったっスよ、正直。

じゃあダメだったかっつったら全っ然そんなことなくってさ、結果からいうとチョー面白かったんスよ。とりあえず、一個一個のシークエンスが持ってるパワーがハンパないっつーか、「地方あるある度」がハンパなかったんスよね。いやいやいや「地方あるある」つったらそのパワーを矮小化しちゃうカンジがするっスね。それより先にさ、「剥き出しのモンが持ってるパワーを断片的でもイイからパッケージしてやった」カンジがチョー良かったんスよね。

――いやいやいや。でもやっぱアレだわ、「地方あるある」クオリティーチョー高いっスわ。うんマヂハンパないんじゃないっスか。少なくともオレはそう思ったっスよ。
実際の話さ、なんだかんだいって、オレ、地方のクソ閉鎖的な社会ん中でクソみたいな仕事してクソみたいな生活送ってんスけど、地方ってさ、全然ヨユーであんなカンジっスよ。オレ仕事してんの土木関係じゃねーけど全然ヨユーであんなカンジっスよ。若いヤツでもパチンコとガイジンパブに多額の金を突っ込むしか娯楽ねーと思ってるヤツめっちゃいるし、そういうヤツの「ガイジン」感って、マヂで「全然デリカシーなく納豆食べさせる」レベルだし*1、クラブにいるのなんてヤンキーなんかなんなのかよくわかんねーヤツばっかだし、トーキョウから帰ってきた奴はなんかしんねーけどムダにポジティブがちだし、選挙に対する感覚とかマヂあんなカンジで「ワタシあの人と知り合いだからややこしいことあったら任しときなよ」つってるレベルのヤツばっかだし、ヤクザの商売っぷりもマヂあんなカンジでじつに接客業として成立してるわけだし――と全部が全部チョーわかるーってカンジだったんスよね。あーあとさ、シャッター通り商店街なんてウチの街かよ?って思ったぐらいだったしさ、この映画、間違いなくこの国の地方のヴァイブスと風景を見事に捉えてると思うんスよ。マヂでオレ全然あんなカンジで日常闘ってるんスけど。

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終了後、富田監督はじめ出演者さんの舞台挨拶あったんスけど、そこで監督さんがさ、「2年に渡って、土方の方や移民の方はじめ、市井の方々から色々なお話を伺って、それをベースに脚本を作り、そして、その脚本使って実際市井の方々に演じてもらいました」つってはったんスよね。「なるほどなー」と思ったっスね。

つまりさ、サンプリングソースをなるべく加工することなくパッケージングしてるっつうか――常識的な判断でいくと「ちょっとここビートだけ抽出したいのにウワモノはいっちゃってるよ」とか「ここ完全にビートのアタマ間違えちゃってるよ」つったふうに思っちゃうような、当初のプランからすると明らかに失敗のはずのモンをさ、「いやでもこれなんかしらんけど良くね?」つって「おりゃ!まんま使ってやったぜ!!」つって、まーそんなカンジのイイ意味の勢いを持って提示してくれてんスよね。ようするにさ、観たときの印象、「剥き出しのモンが持ってるパワーを断片的でもイイからパッケージしてやった」っつうのはおもくそ意図的だったんスよね。技術的には正しくなくてもヒップホップ的には正しいつーか。あるっしょ、そういうの。だから、実際のところ、後々振り返って考えたらさ、「このシーンいらなくね?」と思ったとこでもやっぱあるほうが魅力的だったんだろうなって気持ちになったんスよね。うん、絶対絶対いまの形がイイわ。ほんとサーセン


つかさ、「サウダーヂ」がチョー良いなーって思ったのは、それに加えてなんつーかな、「夏の空気感」を見事フィルムにおさめてるカンジがしてチョー良かったんスよね。でさ、その空気感とさ、郊外の街の遠景に山々が連なってるカンジがさ、なんつーの、日本の地方の原風景っつうか、そういうの想起させてくれてじつに抒情的なんスよね。でさ、そこにかぶさる曲がまたイイんスよね。STILL ICHIMIYA作の所謂ヒップホップの曲や田我流さんのラップは勿論のこと、他の曲もじつにヒップホップ的っつうかさ、それが流れることで日常の風景を変えるっつうか、いや今作の場合「変える」っつうのは適切じゃねーな、日常のあのカンジにブースターかけるっつうほうが適切だな、なんつーか、とりあえずそんなカンジだったんスよね。しかし、なんなんスかね、あのカンジ。全然、自分が住んでるとことおんなじようなとこなのに感じる抒情性って。あ。それをサウダージっていうんかな。
そうか――そうっスわ。アレっすスわ。オレらってさ、闘ってるつーか――あまりに広大で均質的だから把握し辛いんだけど――結局、そういうなんつーの、「大型ショッピングモール」型ゲットーみたいなモンに囚われてんスよ。んでさ、魂はさ、ずーっとホントの居場所を求めて彷徨い続けてんスよ―――

*1:あのシーン、マヂで心の底から腹立ちました。名シーンだと思います。