失われたものを求めて―「ヒューゴの不思議な発明」―

普段、ワタクシ達は、何の気無しにお喋りをしたり書き物をしたりしているわけですが、さて、そこで発せられたり書かれたりするものって、何百年何千年前からビタ一文変化無く続いてきたものなのでしょうか。
勿論そんなことはないですよね。
目にみえる形で残っている「文章」をみれば、まさしく一目瞭然、何百年どころか何十年前でさえ、現在のスタイルとは違うことがわかります。
それは「映画の文法」においても当てはまる。
昔のモノクロ映画をみたら、動いてる人やモノはなんだか早送りみたく動いてるし、役者さんの演技は、例えば、両手をパッと挙げて驚いちゃったりなんかしちゃったりしてじつに大味なときもある。音楽はノペーッとおんなじ曲が流れるばっかで、ややもすれば退屈に思うかもしれません。

しかしです。それがダメなのかというと――ワタクシは全くそんなことはないと思うのです。クラシックスにはクラシックスの味わいが、ある。今の映画みたく語り口が巧妙なら面白いかというと――まあ面白いんですが――それが全てでは、ない。逆にいえば、今の映画はいちいち気がききすぎててウゼーと思うことがあるかもしれませんよね。「ここで泣いて下さいねー」ってカンジでしょーもないJ-POP流れてきたら「イラッ」としますよね。ね。
まあとにかく、昔の映画を「なんだか古い」の一言で拒絶してしまうのは、とてもスクェアな態度のような気がするのです。江戸時代の文章には江戸時代特有の美しい旋律があるし、明治時代の文章には明治時代特有の美しい旋律がある。勿論、大正時代の文章には大正時代の――って、もうイイですね。つまり、古文には古文特有の美しい旋律があるのです。クラシカルな映画にはクラシカルな映画特有の美しい旋律があるのです。

                                                                • -


というわけで。
「ヒューゴ」は明らかにクラシカルな文法で描かれています。興味深いのは、そこに乗っかっている技術というのが、3Dという、現時点では最先端の技術だということ。それは完全に意図されたものでして、タイトルが出るまでの一連のシーンはその2つが見事に融合しててじつに素晴らしいものでした。語り口はクラシカル。技術は最先端。過去と現在のクロスオーバー。エクセレント。というか、スゴい優しい作りだと思ったんですけど、あの展開。冒頭でガッツリ、過去の文法と現在の技術を融合させたものをみせてくれるのって、「この映画はこういう作りですよー。この作品の中では『しましょう』じゃなくって『しませう』って言いますよー」ってちゃんと説明してくれてるわけですから。それも3Dで。そう――
『しませう』が3Dなんですよ、奥さん。
それを踏まえてみると色々面白いと思いますよ。なんせ色々飛び出てくるじゃないですか。アレって完全に、劇中にある、「最初期の映画をみてる人達が『ヤベー!!汽車が飛び出てくるよ!!』つっておののく」ってのとおんなじ体験させようとしてるわけですから。だから、我々観客は、純粋な気持ちで、3Dでジリジリ飛び出してくるサシャ・バロン・コーエンにおののかないといけないのです。いや、冗談抜きでマヂ面白かったんですけど。

でも、もしかしたら、この映画を、その辺の「文法具合」を見逃して、単なる「3D推しの映画」として捉えてしまうと、ちょっと乗り切れないかもしれません。重複してしまいますが、それはちょっと勿体ないと思います。あくまで土台にあるのは「クラシカルな文法」なんです。って、なんだかんだいって、ワタクシ、予告で「クロエたんが劇場で映画を観るシーン」を観た際、彼女の将来に一抹の不安を覚えたのです。「随分と前時代的な演技をするものだなあ。これが演技だと思ってんのならヤバいよなあ」と。でも、彼女の演技は今作においては全く正しかったんですね。あれ、ワザと。ワザと「ワーオ」ってカンジで驚いてらっしゃるの。全然正解。ホント申し訳ありませんでした。クロエたん、デカくてカワイイし、それをちゃんとネタにしてるし、とても素晴らしかったので後で飴ちゃんを買ってあげます。

                                                                • -


なんだか脱線してしまいましたが、じつは、ワタクシ、「失われたと思われていたフィルムを皆で観賞するシーン」でガン泣きしてしまいました。なんかずっぱまっちゃって、体が火照るぐらいの勢いで泣いてしまいました。映画への愛とその場にいる人々への愛に満ち満ちたシーン。溢れ出まくる多幸感。思い出すだけでとても幸せな気持ちになります。
ようは今作で発掘されたのは、失われたと思っていたフィルムであり、クラシカルな映画の魅力でもある。延いては映画そのものの魅力さえも再発見している――ホント、この映画は、語り口と伝えようとしていることが合致した素晴らしい作品だと思います。

(しかし、ナゾなんですよね。「人が集うこと」に快楽を見いだすのはなんだか解ります。「失われた何かが発掘され、過去と現在が繋がり、さらには未来の光景が想起させられる」ってのも解ります。しかし、映像の持つ魔力に関しては今一つ説明しきれない。一体なんなんでしょうね。なんでこんなにも魅了されちゃうんだろう。わかんないから、まさしく魔力ってカンジ)