独りよがりの哀しみ・独りよがりの可笑しみ ―「SHAME」 と 「おとなのけんか」―

【SHAME−シェイム−】
キャリー・マリガンを愛でるために観ました。
大変良かったです。
キャリー・マリガンのおっぱいが役柄同様、じつにだらしがなくって大変良かったです。ってごめんなさい。冗談はさておき、ホントに良かったんです――

シェイム」は誰彼かまわずセックスしまくる一見リア充なブランドンさんとその妹シシーさんのお話です。


さて、この映画、なんともエキセントリックな作品みたく思われるかもしれませんが、じつはあんましそんなこと無いと思います。勿論、エキセントリックなとこもあるんですけど*1、それが脳天直撃するわけでは、ない。でも、ワタクシ的にはとても惹かれた。じゃあ何に?スタイリッシュな映像?うーん、スタイリッシュなとこはある。でも、これみよがしなスタイリッシュさに関しては逆にノレなかったぐらいでして*2、じゃあ何が良かったのかというと「レストランでのデートシーン」はじめ、ムダに冗長なところがスゲー良かったんです。メニューを逐一読みあげるとことか、ワインのテイスティングするか否か聞くところとか、なんかそういうところが良かったんです。

つか、そもそも論なのですが、今作の主人公ブランドンさんって「セックス依存症」なのでしょうか。ワタクシ的にはそこがよくわかんなくって、だってさ、ブランドンさん、セックスばっかしてるわけじゃないじゃないですか。オナニーもしまくってるじゃないですか。あのう、オナニーとセックスって別モンですよね、本来。もし、ブランドンさんが「厳密な意味でのセックス依存症」ならオナニーはしないと思うのです――
って、何が言いたいかというと、ブランドンさんのセックスってさ、「オナニーの原動力としてのセックス」であり「オナニーと同質のセックス」ってカンジですよね。実際、ブランドンさん、セックスに「愛っぽいなにか」が介在した瞬間、途端に萎えてしまうわけじゃないですか。結局、彼のセックスには他者の存在は皆無で、そこに穴があれば、女性だろうがなんだろうが口だろうがなんだろうが全然構わないんだと思います。つか、極論をいえば「木の節」でさえイイんだと思います。それがなんとも切ない。そう、それがなんとも切ないのです。
その切なさは、じつは妹のシシーさんにも当てはまる。シシーさんはやたらと「愛」を求めてるっぽいんですけど、結局、彼女の「愛」もコミュニケーション不在の自己完結しまくったオナニーなんですよね。だから、この兄妹、他者と繋がりたくても繋がることのできない、とっても哀しきオナニー兄妹なのです。


つか、この兄妹みてたら、「セックスって何?」「愛って何?」と考えざるを得ません。「所詮、愛なんて、人間が人間らしさを誇るために捏造した幻想なんじゃないか?」とさえ思えてきます。形こそ違えどその呪縛のせいで苦悶する二人。うーむ。なんとも「SHAME」という言葉がズシリと響いてきます――

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おとなのけんか
ワタクシ、実人生において、バリバリ仕事をしてしかるべき地位を手に入れたいと思うことありますし、それに伴ってのことですが、安定した収入を得て平穏な生活を送りたいとも思ってます。ちなみに、そのためなら「多少の道徳的逸脱は致し方ないだろう」と思うぐらいのマキャベリズムは持ち合わせています。でもやっぱ、男性的寛容さをもって他者と接したいなあとも思います。いや、それを「男性的」っていうのは語弊がありますね。「女性的な思いやりを持って」接したいともいえますもの。って、それはそれで語弊がありますね――と思ったりすることもあります。
なんかこういう話してると、すぐ目の前にある、とっても身近な事象にしか興味ないのかと思われそうですが、全然そんなことはなく、例えば、現在世界中で起こってる様々な紛争等に対して憤りを覚え、さて我々はどうしたらよいものかと思案することもあります。かといって、逆にミクロ的な事象、愛玩動物の虐待などに対して怒りを覚えることもあります。なんだかネガティブなことばかり言ってますが、勿論、ステキなものに触れたいなあという欲求はあります。多くの芸術作品に接したい気持ちはつねに持っていますし、少し欲深いことを言わせて頂ければ、全然手の届く範囲でいいので希少価値のある物を所有してみたいなあと思うこともあります。勿論、ステキなお洋服を買ってみたりもしたいですね。
あと、なんだかんだいって美しい花をみて感動する気持ち?そういうのってスゲー大事だよなあとも思ってます。

おとなのけんか」は、こどものケンカに端を発しおとながケンカをはじめます。


さて。先に書いたようなことは多くの人に当てはまることだと思います。全部が全部少しづつ当てはまるかもしれないし、どれか一部分に特化して当てはまるかもしれない。とりあえず、「そんなの今まで微塵も思ったことない!」って方はいないんじゃないでしょうか。「おとなのけんか」は、4人の大人たちを使って、それら「誰もが正しきこととして持ち得る思考」を先鋭化させて発露しまくり、結果、議論があっちにいったりこっちにいったりしっちゃかめっちゃかになってくとても楽しい映画です。

ところで、そういった様々な「思考」を追求してった先には、魂の安らぎを得ることが出来る「天国的な場所」はあるのでしょうか。

おそらく無いですよね。

先に書いたような思考って、全然体裁だけのモンであって、一切この世に存在しなくってもいいんですよね。そんなもんですね、例えば、ワタクシ達が「未開社会」に触れた時に思う感情と大差ないんじゃないでしょうか。

「この土人たち、どうしてこんなモノを大事に扱ってんの?ただの泥の塊に過ぎないのに。なんの意味もないのに。可笑しいね」
「あの土人たち、どうしてあの酋長についてってんの?ただのウソツキ預言者に過ぎないのに。何に憧れてんだろ。可笑しいね」

大差ないどころか一緒ですね。一緒。全く一緒。
我々、洗練された文化人ぶってますけど、ぜーーんぜん土人と一緒なんです。ロジックを駆使して賢ぶったり良識人ぶったりしてますけど、そんなもん、このワタクシのブログ同様、無意味かつ無価値のものなんです。全ては「儀礼的」なものに過ぎない。ようは自己満足のオナニーなわけです――

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こういう風に書くとなんだか冷笑家みたいですね。いや、まあ、それは完全否定できませんが、ワタクシが主張したいことはそういうことじゃなくって「人間、身の程を知らないとダメですよね」と言いたいわけです。つまり、「天国的な場所」ってのは、諸々追求してった先にあるんじゃなくって、諸々剥ぎ取った根っこにあるんじゃないかと思うわけです。「おとなのけんか」のラスト、アレって皮肉あふれまくってますけど、それと同時にスゲー希望があるわけですよね。おとなの装飾と無関係にあるモノ――しかしなんといいますか、自分らがつくった概念に囚われ右往左往するなんて、人間というものは、なんとも哀しく、そしてなんとも可笑しな存在ですね。

*1:オナニー見つかって発狂やけくそのナンパ失敗してからのハッテン場行き苦悩の3Pから列車ストップ」とか文字にしてみるとマヂか……ってカンジなんですけど、これがスゲー泣ける。

*2:この兄妹の人生の「語られなさ」ってクレバーな選択だと思いつつも、ちょっとズルいよなあとも思いました。いや、ズルいというか、「それによって評価が下がってしまうケースが発生しちゃうのはとても勿体ないなあ」ってのが適切かなあ。