小説が原作の邦画を続けて観てみました。

黄金を抱いて翔べ

小説上では違和感なく飲み込める台詞であっても、それをそのまま映画に乗せてしまうと、なんとも違和感生じてしまうケースというのはままあると思います。修飾技術の過剰な進化が招いたイビツな表現って、文学上では成立しても、実際の言葉にしちゃうとなかなか恥ずかしいものになってしまうわけです。
さて。「黄金〜」にはそのような台詞が沢山でてきます。加えて、会話による状況説明。「さ、寒い……」とかわざわざ口答でいわなくっても見りゃわかりますから――ってやつ。うーむ。ふつー、こういう演出具合でしたら、正直なところ、なんかヤダなあと思うのが世の常だと思います。しかし。「黄金〜」においてはなんだか許せてしまった。これは一体どういうことなのでしょう。それは、この作品に出演されてる役者の皆さんから立ち昇る色気がハンパなく、その火照りっぷりにやられてしまったからなんですね。色気がビンビン発せられてるから、いいんだよ、こまけえことは!ってカンジです。中でも浅野忠信さん。とにかく浅野さん最高です。というか、浅野さんがキモのような気がしてて、ようするに、彼氏の色気に加え、彼氏の演技っぷりが、この映画にとってはとても重要な役割を果たしているのではないかと思うのです。というのは、浅野さんって、ナチュラルなていの演技されるじゃないですか、んで、その演技って「ええっと、俺たちは右手に行くから、ああ間違えた間違えた、こっちだ、そうこっちだな、このノブをギュッとひねって、グッとひっぱって、そうだそうだ、こっちだわ、左手だわ」みたく自分の行動、全部喋ってたりするじゃないですか。わりと。そのカンジが、文学をまんま輸入しちゃった結果生じちゃってる過多な部分とイイ具合で混じり合い、奇跡的なバランスが成立してんじゃないかなあと思ったわけです。
そんなこんなで「黄金〜」は、小説を映画化するにあたっての方法論としては全然上手くいってないのに、結果的には、上手くいっていないことから生じるヤダ味さえ心地よくなるぐらい魅力的に映るという、なんなんでしょう、とても不思議な映画だと思います。

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悪の教典

貴志作品は「新世界より」のみ読んでいるのですが、正直な話「新世界より」って、文学的な精度粗いし、プロットそのものも粗いし、なんつーかな、ぶっちゃけ文学寄りのラノベといった印象を抱いたのです。申し訳ありません。
で。「悪の教典」はどうだったかというと、うーん、映画を観る限りは、やっぱ予想通り粗いわー雑やわーってカンジでした。根本的な部分ですけど、ハスミンが行う一連の犯罪、ハーバード大学を卒業した超天才人間が行うにしては尋常じゃない雑さですよね。そういうところがなー。つかさ、「ハーバード大学MBA取得、その後はアメリカの大企業で云々」っていう経歴がさ、じつにアレじゃないですか。
でもさ、この映画に関しては、プロットそのものの雑さと、それに加えての――とりあえず皆ショットガンでブチ抜いといたらイイだろ的――表現の雑さが大変救いになったのです。というのは、これがさ、実在感ありまくりのバチバチにキャラ立った生徒達がさ、微塵の逃げ間もないぐらいバチバチに追い詰められてさ、思わず目を背けたくなるレベルのバチバチのリアルさで殺害されてったら――ヌルたいこと言っちゃいますが――マジで耐えられんかったかもしれません。「若い子達には未来があるんやからやめてあげて……!!」と発狂してた可能性が高いです。ホントこれぐらいの雑さだから観ることができたのではないかと思います。丁度いいんじゃないですか、これぐらいのリアリティないカンジが。重ねがさね申し訳ありませんが。しかしです、なんといいますか、原作が粗っぽい作品ですと、映像化するにあたっては味付けし易そうで便利そうな印象ありますが、敢えてここは雑な雰囲気残したのでしょうか。「雑だ」「雑だ」言ってますけど、じつは「起・承・転」までは結構丁寧に物語積み立ててっんですよね。謎です。順番に撮ってって、終盤飽きたんかな

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「のぼう城」

TBS制作ということで、正直懐疑的な気持ちで観に行きました。が。予想以上に骨太な作りで大変良かったです。オープニングなんて「うわー。これはクラシックだよ。後々、この映画を劇場で観たことは自慢できんじゃね?」と思ったぐらいです。本篇においても、役者の皆さん大変素晴らしく、文学では表現し得ない映像ならではの見事な肉体性帯びてたと思います。もし、「信長の野望」に忍城の武将達が登場するのなら、例え能力値低くても使いたくなるなあってぐらい魅力的でした(「能力値低くても」ってところは大事なポイント)。
ところで。じゃあ、実際に「俺的クラシック」として認定したかというと――それとこれは別でして。なぜかといいますと、この作品――TV局制作による何かなのか、それとも芸能事務所的な何かなのか、その辺判別つきませんが、ようするに、芦田愛菜的な何かがゴリゴリ入り込んでおりまして、映画の格とテンポを貶めてしまっていると思うのです。私、原作未読ですから、これは推測にすぎないのですが、原作ではもう少し展開にメリハリがあるのではないでしょうか。或る局面は「力」で乗り切ったが、すぐさま次なる困難が発生し、今度はそれを「トンチ」で乗り切って的な。んで、物語は戦闘に終始するんじゃなく、最終的には「交渉」によるカタルシスがあって――ってカンジで章ごとに別の対処法をみせて物語を引っ張ってく的な。ま、映画でもそういうカンジ残ってますけど、結局、芦田愛菜的な余分な何かが入り込む(入りこまされる)ことによって、全体としてはのっぺりした展開になっていると思うのです。惜しい。惜しすぎます。芦田愛菜的な何かを抜き、ここ一番の見せたい「絵」をバチーン!とみせる展開だったらマジクラシックだったのになー。テーマ的にも、今だからこそってのを盛り込むこと出来たと思うし、ああああ惜しい。惜しすぎます。
ちなみに「芦田愛菜的な余分な何か」って言うと、遊助も含まれそうですが、彼は違いますんで。この作品における遊助はすんんんごい良かったです。遊助演じる石田光成はとても良かったです。あれは絶妙。イイ奴かもしれんけど絶対相入れないカンジというか、ムカつくけど突き抜けたド級のド外道じゃないカンジというか。まさに遊助!!ってカンジでとてもとても良かったです。