「おだやかな日常」と大学の同級生Mの話

シネヌーヴォで「おだやかな日常」を観た。九条までは阪神電車を使って行った。観了後、同じ路線で帰った。電車は、18年前の震災で被災した東灘の街を横切っていく。車内では行楽地帰りと思しき親子が眠っていた。川を渡る時、西日と水面の照り返しがとても眩しかった。18年前、ストーンズの東京ドームツアーへ行く道中、代替バスに乗って抜けていった町を、今、改めて高架上から俯瞰でみると、そう変化した印象は、ない。人は、山と海に挟まれた僅かな平野部に住んでいる。
代替バスは被害の激しかった街中へと入っていった。階下が潰れたマンションのそばを通り過ぎる時、車中、どこからともなく唸り声が聞こえた。しかし、それは、すぐに、止んだ。


一見するとおだやかでない状況下でも当然おだやかな日常があり、それはいつしか、おだやかさを取り繕うだけのおだやかではない日常に変わっていく。


大学時代の友人Mは長田出身だった。当時、ニュース映像で流され続けていた長田の下町――延焼を食い止める時間すら無かったあの町――に住んでいた。震災後、Mの家族は仮設住宅で暮らすことになった。仮設住宅が不足しているという話もあったが、彼の家族は2棟使っていた。ローゼズの「セカンドカミング」が発売された直後で、そのアルバムに感銘を受けたMは、そこから一段遡り、ツェッペリンのことが好きになった。バイト代がはいるとすぐに、レスポールのギターとマーシャルの真空管アンプを買った。そして「仮設住宅では使えない」と言って、私の家に持ってきて弾いていた。或る日、いつものようにそのセットを持ってきたのだが、車の振動のせいだろう、真空管が割れていた。
皆が就職活動をはじめた頃、Mは突然大工になると言い出した。私は笑った。意味がわからんと笑った。Mも笑った。しかし、Mは本当に大工になった。大学を卒業してしばらく経った或る日、Mが別の友人宅にあらわれた。大工になる年齢としては圧倒的に遅すぎたため、相当の苦労があったのだろうか、「夜中にノミを研ぎ出したら知らん間に朝になってんねん」と語った。その後しばらく、Mからの連絡は途絶えた。空白の時間、Mはサナトリウムに入っていた。その間を献身的に支えてくれた女性と結婚した。私と、ノミの話を聞いた友人は、Mの結婚式に招かれ、そこで、その話を聞いた。


Mはおだやかな日常を送っていた。


一見するとおだやかでない状況下でも当然おだやかな日常があり、それはいつしか、おだやかさを取り繕うだけのおだやかではない日常に変わっていく。


今、目の前におだやかな日常が在ると信じて、その幻想を維持しようと同調圧力をかけてくる人たちがいる。かつて、おだやかな日常が在ったと信じて、その幻想を取り戻そうとヒステリックな叫び声をあげる人たちがいる。原発事故が起ころうが起こるまいが、彼彼女らが交わることはなかっただろう。そもそも、おだやかな日常なんて、ない。そう、世界は本質的にはおだやかであったためしがない。つまり、おだやかな日常とは、おだやかじゃない世界の上に成立している。だからといって、我々は、おだやかではないという理由で歩みを止めることはできない。それでも尚、歩みをすすめなければならない。それは理屈では、ない。


劇場を出たとき、向かいにある焼肉屋の前に子ども用の自転車が数台停まっていた。駅へ向かう途中、小さな工場の前を通ると、半分下ろしたシャッターの隙間から初老の男性が機械を稼働させている様子がみえた。何が起ころうがおだやかな日常は続いていく。おだやかではない世界の上で。


結婚式の後、Mとは二度程会っただけだ。それももう10年以上前のことだ。