「ばしゃ馬さんとビッグマウス」 誰がこの脚本を書いたのか――

とにかく、麻生久美子さんが超絶に可愛いです。可愛すぎます。いざ、感想を書こうと思い、面白かった場面を振り返ろうとしましたら、頭に浮かぶのは、とても可愛らしかった麻生久美子さんの御姿ばかり。しかし。具体的にどこがどうってのは全然出てこない。なぜなら。麻生久美子さん、全部ヤバいから。そう。麻生久美子さん、全部ヤバいのです。1200%可愛い。仮に現実世界で麻生久美子さんと出会うことがあろうものなら、脳みそが「認識出来る可愛さ」の上限を振り切っちゃって発狂してしまうかもしれん……と思えるぐらいの可愛さです。人がもし、神と呼ばれる存在と接触することがあるとしたら、その時、人は神と呼ばれる存在を理解できるのでしょうか。僕はできないと思う。理解できず、ただただシンプルに発狂するのではないかと思う。麻生久美子さんはそれぐらい可愛いのです。つまり、女神です

脚本家を目指してちょー頑張ってるけど結果がついてこない馬淵さん(麻生久美子さん)と、なんも作ってねーのに偉そうなことばっか言ってる天童くん(関ジャニの安田くん)のお話です。


というわけで、麻生久美子さん演じる馬淵さん、超絶に可愛いのですが、彼女、クリエイターとしてはホントどうしようもないポンコツなんですよね。そのサマを愛すべきドジっ子的に描くでもなく、逆に嫌みったらしく描くでもなく、過剰な説明を省いてリアルに描いておりましてとても素晴らしいです。
例えば。馬淵さん、とある映画監督から助言(?)を受け、老人介護をテーマにした脚本を作ろうと思い立ち、取材のために元カレ頼って介護施設へボランティアに行くのですが、そこでの振る舞いがホントにどうしようもなかったりします。じつはワタクシ、つい最近、介護施設に行く機会があったのですが、そん時、正直な話、わくわくする部分があった。「ここにいる人たちの人生を知りたい…!」と思った。それは勿論清廉な理由からだけではない。ゲスい心情も多分にある。でもさ、モノを作る人ってそうあるべきじゃん?倫理的に正しい正しくないじゃないじゃん?そこ踏み込まんとダメじゃん?なのに、馬淵さん、そういうことは全然してないっぽくて、ただ単にお爺ちゃんお婆ちゃんの世話するばっかなのです。「あ。この人、なんだかんだいって事象を上辺だけしか捉えようとしてないよな。結論ありきで取材してるよな。そんな人が面白いもん作れるわけないよな」と思ってしまう。こういうのを、言葉では説明せずに表現するのってホント素晴らしいし、じつに映画的ですよね。
と。そんなカンジのポンコツクリエイターワナビーだった馬淵さん(と天童くん)なのですが、話が進むにつれて、それじゃあダメだなあと気づいてくれまして、自分と向き合った作品づくりに取り組むことになるのですが。が。ここからの展開もなんだかんででわりかしビターで素晴らしかったりします。ワタクシは常日頃「クリエイターはパーソナルな部分を曝け出してこそなんぼ」と思ってて、で、クリエイターの問題はその先だと思ってて、つまり「パーソナルなものをどうやって世間とすり合わせしていくか?」だったり「パーソナルなものの受け容れ無さをどれだけの熱量で押し切ってしまうか?」だったりとかが勝負だと思っているのですが、この作品は、その点においてもなかなか容赦ない展開を用意してらっしゃるわけです。つまり、この作品、はっきりと「あんたらはようやく土俵にあがっただけに過ぎないんだよ」つってるわけです。ホンット好感持てますね。


といったカンジで、映画自体はとても面白かったのですが。が。ワタクシの頭の片隅には見てる間じゅうずーっと「これは俺の映画ではないよな」感が漂っておりました。それはどういうことかといいますと――
ワタクシはこれまでの人生において、馬淵さんや天童くんみたいな人物、端的にいうと「無根拠な自信を持って夢へ向かって驀進しているげな人物」たちを見るにつけ「あいつらウザいし、絶っっっ対何者にもなれんわ」と思いながら、それと同時に「でも、結局、何者にもなれないと悟ったような顔をして何もしない俺もあいつらとおんなじクズ」とも思いながら生きてきたわけです。「何者でもない自分」を過剰に受け入れ死人として生きる――つまり「桐島、部活やめるってよ」におけるヒロキ君的ニヒリズムに囚われ、深い深い絶望ベースで人生送ってきたわけです。そんなワタクシからしますと、馬淵さんと天童くんは存在自体が勝者なのです。そう、ワタクシがあいつらに抱く感情は「ウザさ」と同時に「羨ましさ」もある。あんましなんも考えずに、身内ノリのギャグとテレビの芸人のギャグをパクっただけで一笑い頂き、あろうことか「俺ら芸人になるわ!」と言えてしまう短絡さに対する羨望。そう、なんだかんだいって羨ましいのです。つかさ!単純によ!ファミレス的なところで!麻生久美子さんと脚本のチェックしあうのとか!ぜんぜん理解出来ひんかった年下の男の子と!なんだかんだで距離が近づいていくのとか!全然ええやんけ!そんな至福の時間が体験できるんやったら何者にならんでもええやんけ!知らん!!キー!ともなりますよね。
さらには。この作品、終盤、時系列から鑑みるに「明らかに劇中の誰かが【ばしゃ馬さんとビッグマウス】の脚本を書いたであろう」というメタ演出が盛り込まれている。それってさ、登場人物にはある種の「救い」をもたらすんだけど、徹底的な負け犬人間であるワタクシ的には、それはちょっとヤダな……と思ってしまいました。だってさ、それだと、向こう側の圧倒的な勝利なんだもんな。キー。


といったカンジだったのですが。エンドロールが始まった瞬間、ワタクシ、自分でもまさかの号泣をしてしまいました。つまり、これはアレだ、登場人物達の実在感がハンパなかったということなのでしょう。あまりに実在感ありすぎて、ふと「ああ。もうこの人達と会うことはないんだろうな」と思っちゃってなんだか泣けてしまったんだろうかな。それは別離の寂しさつーのとはちょっと違うような、なんつーか、断絶に継ぐ断絶の人生を送ってる自分にとっては、その途切れちゃった事実を思い出しちゃったってカンジなんかな。わかんないわ。まあ、とりあえず、実在感あったちゅうわけです。

そういや、ワタクシ、この作品でもう一つグググと泣けたのは、天童くんのお母さんが「食べり」と言って蜜柑を差し出すところだったりします。「食べ」とか「食べんか」じゃなくって「食べり」!リアル!!