「悪の法則」と「2666」について

まず「悪の法則」についてです。

メキシコの麻薬取引に関わった人たちが皆大変な目に遭います。


さっそくですが、「悪の法則」という邦題、ちょっとどうなのでしょうか。というか、はっきりいうと、ワタクシ、このタイトルは制作者の意図をすぼめてしまうものではないかと思うのです。だって、このタイトルだと「一度ヤクザに関わっちゃうとどうにもこうにも抜け出すことが出来ないよ」的な内容に囚われてしまいませんか。つまり、この映画はそういう話ではないのです。いや、そういう話なんだけど、「こわい組織の不条理性」ってのはあくまでもメタファーであって、この映画が描こうとしているのは、「もっともっと根本的な何かの不条理性」なのです。これは絶対にそう。絶対にそうなのです。自信たっぷりに断言できるのです。なぜなら、この映画の脚本を書いているコーマック・マッカーシーの他の作品「ノーカントリー」も全くおんなじテーマなんですもの。
ちなみに「ノーカントリー」における「根本的な何かの不条理性」の描き方もとても素晴らしいものです。あの作品ではアントン・シガーというとても魅力的な殺人マシンが登場して大活躍します。それはもう「不条理の権化」の如き大活躍っぷりです。つって、それだけだとそういうキャラがイイカンジで暴れまわるだけの作品になっちゃうかもしれませんが、ノーカントリーは一味違う。そこから一段踏み込んで「不条理の権化の如きアントン・シガーですら不条理の法則の中に在る」って描いているんですよね。これはマジヤバイです。

話を戻しますと。「悪の法則」では、とある登場人物が暗躍しまくって、色んな人達を地獄送りにしていくのですが、じゃあ、その人物が「不条理の権化」なのでしょうか。ワタクシ、観終わった直後はそう感じてましたが、それにしてはちょっと弱いっちゅうかなんちゅうか、腑に落ちない所があった為、しばらく考察してみたところ、新たにおそらくこれが答えだろうというのが導き出されまして、じゃあそれは何かといいますと、マッカーシー「メキシコという国そのもの」を「不条理の権化」として描いているように思うのです。「劇中のメキシコ」に関わる全ての事象が発する死のヴァイブスの容赦なさ――そう、ヴァイブスなのです。ヴァイブスってのがハンパないのです。特定のキャラが死を司っているわけではなく、死はそこら辺に漂っている、というか、我々は死に内在されているってのがより明快に描かれている。あーマジヤバイですね。

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ところで、「悪の法則」の終盤において、メキシコを彷徨うファスベンダーがデモに遭遇するシーンがあります。大した説明もなく唐突に差し込まれるシーンなので一体なんなんだろうって感じてしまうかもしれませんが、あれはメキシコで実際に発生してるシウダード・フアレス連続殺人事件に対するデモなんですよね。

シウダード・フアレス事件とは――アメリカとメキシコの国境沿いの街であるシウダード・フアレスで95年からつい最近までの間に、少なくとも800人の女性が殺人事件の被害者になっているという事件です(行方不明者も入れると数千人になるとのこと)。これだけの規模なのにも関わらず、いかなる犯人、いかなる犯罪組織が関与しているかは不明という事件*1。というか事件という規模なのか……?という事件です。


さて。じつは、日本では「悪の法則」が公開される前に、シウダード・フアレス事件がモチーフに使われている小説が刊行されました。それはチリ出身の小説家、ロベルト・ボラーニョ氏の遺作「2666」という小説です。と言っても「2666」の物語の軸は「犯罪」ではなく――

凡ゆる経歴が謎に包まれている作家アルチンボルディの正体を突き止めようとします。


という話なんですけど、そん中でシウダード・フアレス事件をモチーフにしたお話がゴリッと絡んでくるのですね。これ、ほんとゴリッという言葉が適切だと思ってて、だって、一章を丸々使って、事件に巻き込まれた女性たちのことを延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々レポート的に綴っているんですよね。正気の沙汰とは思えません。

興味深いのは、「2666」も「悪の法則」と同様、「根本的な何かの不条理性」を描いているということです(というか、発表順からいうと「2666」のほうが完全に先なので、それに触発されてマッカーシーが脚本を書いた可能性は多分にあります)。ただし、近しい作品だからこそ差異が際立つところもあって、「2666」では、軸が軸だけに行間からボラーニョの情念が滲み出まくっています。これがもうたまらないのです。ボラーニョの情念、それは小説家であることの叫びです。でも、彼の叫びの高い純性は、自我の叫び、というか生まれてきてしまった者の叫びのレベルまで昇華されている。もし、興味持たれて読む方がいらっしゃったらと思うので、詳細を書くことは避けますが、ボラーニョは「根本的な何かの不条理性を踏まえた上で、半ばヤケクソ的ともいえるかもしれんけど、もがいてもがいて生きるサマ」ってのを「星の瞬き」に例えて表現しています。そして、そのような言葉を記した作品が遺作であるという事実――これはもうなんともたまらんものがあります。
「2666」も「悪の法則」同様、そうではないものとして読むことは出来ます。そして、そうではないものとして読んでもヤバいのはヤバいのですが、ホントのヤバさはその奥側にある。「悪の法則」は観たけど「2666」は読んでいないって方のほうが圧倒的に多いと思いますので、もし興味持たれましたら、是非「2666」読んでみて欲しいですね。

*1:逆にいえばこれだけの規模だからこそ諸々不明になっているといえるかもしれませんね