「スノーピアサー」と「新しき世界」

【スノーピアサー】

近未来。生物が住めなくなった極寒の地球の上を、人類の生き残りを乗せた列車がグルグル走り続けています。最後方の車両で虐げられた生活を送る主人公たちは革命を起こそうとします。

ネタバレはしてますね。
ポンジュノ監督、前作である「母なる証明」がパート構成バキバキにキマった作品だった為、次は一体どうするんだろう?と思ってたら、これはこれは。スゲー変化球投げてきましたね。吃驚です。だってこの映画、第1パートでいきなり「世間一般でいうクライマックス」みたいな展開みせるんですもの。で、え?え?と思ってたら、なんとその後も各パートごとに世間一般でいうクライマックス的なものを持ってくる。とみせて。って、なんつーアレな構成なんですか。「母なる証明」である種の完成形作ってしまったから実験してみたくなったのかな。じつに面白い人ですね。
で、です。構成もさることながら、中身もやはりなかなかのもので、粗を指摘し出したらキリがない超絶設定のもと、陰惨さと可笑しさをドバッとまぶしつつ、直球なテーマを寓話的に描いている。なんという捻れ具合でしょう。書いててなんの何かよくわからなくなっています。でもまあ、ようするにこの作品における列車とは、明らかに我々が生きる社会そのものであり、つまり、この作品はSFというより、教訓めいた童話のようなものかもしれません――。

一度動き出した列車は容赦無く一方向に進むのみで、その運動下では乗客個々人の瑣末な意思など蔑ろにされる。しかし、だからといって乗客は無条件でその運動に従わなければならないわけではない。―そうすることによってどうなるかはさて置き―乗客は他の車両の様相を知ることが出来る。なぜなら、乗客には自由意思があるのだから。当然、私のような、お偉い方のおっしゃる言葉を何の疑問もなく素直に受け入れることができない性根の捻じ曲がった人間が、何かを掌握し何かをコントロールしたげになって調子ブッこいてる権力者に向かって靴を投げつけることも出来る。たとえそれが絶望的に価値のない10インチのケイオスだったとしても、そうすることは出来る。しかし。そのケイオスは、より大きな意思によって「仕組まれたもの」かもしれない。ということは、我々には自由意思はないのか?存在の意味はないのか?否。たとえ仕組まれたものだとしても、我々が意思を持って存在しているということは紛れもない事実なのである。もしかしたら、我々はその「囚われの自由意思」を貫き通すことによって、監獄から脱出することが出来るかもしれない。もちろん、脱出出来たとしても、外界が光り輝く自由の楽園である保証などない。というより、おそらくそこはやはり監獄同様過酷な世界なのだろう。しかし、それでも尚、我々は監獄を破ろうとしなければならない。壁をぶち破った向こう側に、さらに大きな壁があるとしても、目の前の監獄を破ろうとしなければならない。

プリズナーNo.6ですね。

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【新しき世界】

会長の急逝により跡目争いが勃発したヤクザ系企業ゴールドムーン。その組織の中で、長年に渡って潜入捜査をしてきた主人公ジャソンは、またしても新たな指令を強制的に決行しなければならなくなるのでした。

どこがキモかっつーのは書いてますね。
「新しき世界」、韓国産のヤクザ映画ということで、イイ顔した漢達が仁義通したり裏切ったり暗躍したり表立って抗争したりしまくる、東映三角マーク的な内容かと思って見に行ったのですが――いやあ、この作品はもう、東映云々じゃなく、というか、韓国映画云々つーレベルさえ超えた普遍的面白さを持った作品なのではないでしょうか。いやホントとにかく映画的ルックスのよさがハンパない。カッコよすぎます。最高に好きです。といいつつ、ワタクシ、所謂「完成度が高い映画」が好きかっつーとそうでもなかったりするわけで、じゃあ具体的にこの作品のどこが良かったのかといいますと――

キモは、主人公ジャソンと彼の兄貴分にあたるチョンチョンが、韓国社会の中では差別されている存在である華僑出身だということです。劇中、そのことに対してちょいちょい触れはするのですが、じゃあどう差別されてきたかっつーのは具体的には描かれず、その辺は全編に渡っておおむねフワッとした描写をするにとどめています。しかし。終盤、主人公がどういう言葉をかけられて潜入捜査官になったのかを回想するシーンがあるんですけど、そこでの僅かな会話と、劇中、ジャソンが置かれている状況から、彼がこれまで韓国社会の中でどのように生きてきたかが突然浮き彫りになるのです。そして、それは同時に「ああ…だからチョンチョンはジャソンを信頼し、ああいう行動を取ったのか…」と理解できる。つまり――チョンチョンはジャソンのことを「ブラザー」と呼ぶのですが、それは、ヤクザ世界における義兄弟であるだけでなく、ただ波長があったからっつーだけでもなく、あの二人は同胞的絆で結ばれていたんだってことが解る。これがもうおそろしくミニマルだけどおそろしく効果的な演出でヤバかった。あの僅かな回想シーンでこの映画の価値はグググと上がった。冗談抜きで全シーンの良さが跳ねましたし、それを踏まえてのあのラストがさ。ヤバすぎましたね。深みがありすぎます。マイノリティである彼らがさ、初めて寄り添える人を見つけたカンジっつーのがビンビンに出てんですよね。思い出すだけで泣けるわ。
なんにせよ、この作品のテーマが「無自覚的に利益を享受するマジョリティたちに対するマイノリティの叛旗」であるのは間違いなくって、だって、ジャソンはさ、終盤、或る人物たちを使って、今まで自分を散々こき使ってきた警察の奴らのタマを取りにいかせるんですけど、それを誰に命じたかというと、華僑同様、韓国社会では虐げられた存在である「延辺朝鮮族」たちに命じているのです。これは燃える。これは燃えます。韓国社会の中の中国人である華僑。中国社会の中の朝鮮族である延辺人。ともに国境という人為的なモノに翻弄される者たち――。うーん。なんとも迫るものがあります。だって、人為的に作られたマジョリティとマイノリティの軋轢というものは、もちろん韓国社会だけに存在するものではなく、人類に普遍的にあるものなんですもの。とても哀しい話ですが。