「アクト・オブ・キリング」

僕はこの映画を見終わった後、ふと「知性なんてドブに捨ててしまったほうが快適な人生を送ることができるのではないだろうか」と思った。「知性の放棄」、それは「蛮性の行使」を表すのではない。いや、その言葉を使うと、何か遠い世界の出来事のように思えてしまうから否定しただけで、結局、僕が言いたいことは「蛮性の行使」であって、それはつまり具体的にいうと――


「こんなことするのは朝鮮人に違いない」とか「普通の日本人はこんなことしない」といった言葉を発し、忌まわしい行為は全て外部のせいにし、同時に自分は輝かしき正義の使者だと信じる、超絶的な幼児性の発露といえる「反知性」のことを指しているのだ。


雰囲気に囚われて「朝鮮人は悪」「日本人は善」と言えてしまう思考――それは、ジャカルタのヤクザ、通称プレマン達が、数多くの市民に対して共産主義者のレッテルを貼り、彼彼女らを機械的に、そして半笑いで、次々と殺害していった感覚となんら変わりはない。


共産主義者はテロ行為を働く非人間的なヤツら」
「俺らは国家を守った英雄」


さらにいえば、安易に「朝鮮人は」云々言える人間は、プレマン達の虐殺を自らの発言と照らし合わせて考えることが出来ない。つまり、その「反知性」の度合は、自らが行った犯罪行為に自覚的であるプレマン達以上に反知性的――だということにさえ“気付かない”レベルの、底辺中の底辺の反知性なのだ。

自身がその中に埋没している事実を認識出来ないという絶対性――。迷いのない御姿はまるで神のようである。その神々しさを目の当たりにすると「人間の尊厳」などクソの役にも立たないマボロシにしか思えない。そう、実際のところ、反知性から脱却しようともがき苦しんだ果てに得ることができる「人間の尊厳」は、何かを救うことなどできない。「人間の尊厳」なんてものは全く無価値なものなのだ。


本作では、或る登場人物が、過去、自らが行った行為の酷さに“気付き”地獄に堕ちることとなる。しかし、だからなんだというんだ。彼はただ人間の尊厳を獲得し、ただ地獄に堕ちただけにすぎない。そこにそれ以上の意味はない。全く意味なんてないのだ。それはあらゆる人間が「将来確実に起こる出来事に気付いたところで、それから逃れることは出来ない」のと同じだ。人がどう思おうが一度起こったことは起こったことだし、必ず起こることは起こる。足掻いたところでどうしようもないのだ。

ならば。
あらゆる道徳や知性を捨て、目の前に広がる現実世界をただただ思うがまま自由に生き抜いたほうが幸せではないか。勿論、僕は「人間の尊厳」を容易に放棄するつもりは、ない。しかし、だからといって――


我々の生きる現実はどれほどのものだというのだ。


本作において、かつての殺人者達が再現してみせる数多の残虐な場面をみて―そのクオリティの低さから―滑稽さを感じている方も多いようだ。しかし、僕は滑稽さを感じることは無かった。むしろ、そこから立ち上ってくる圧倒的な禍々しさに呑み込まれてしまった。僕は、あの演劇の現場で、泣き叫んだり、それどころか意識を失ってしまった者たちと同様、虐殺の場面に居あわせた。そして、僕は現実と演劇の垣根が溶解していくのをみた。


これは演劇なのか?
じゃあ現実とは一体?


アクト・オブ・キリング」。殺人行為。非人道的な虐殺行為。殺人者たちがかつて自ら行った殺人を再現してみせる行為。では、殺人者たちがかつて行った殺人とは一体なんなんだ?彼らの本意はどこにあったんだ?彼らは生まれた時から純粋な殺戮者だったのか?それともただの映画好きのチンピラが何かの力に導かれて何かの役を演じたのにすぎないのか?殺人者たちは多くの人間の尊厳を奪ったことはまごうことなき事実だが、じゃあそこで話を終わらせたらいいのか?彼らは他者の尊厳を奪うと同時に自らの尊厳も放棄したのではないか?


演劇とは一体なんなんだ?
現実とは一体なんなんだ?
そこに意味はあるのか?


本作は、ただ単に人類の蛮性を映し出しただけの作品ではない。そこに「演劇」という要素を混ぜあわせたことで恐るべき化学反応が起こり、時に鑑賞者をニヒリズムの極点とでもいうべき場所に連れていってしまうのではないだろうか。ニヒリズムの極点――それは「絶望」を意味するのではない。そこに触れ得たからこそ見える世界も、在る。つまり、なんの価値も無い世界の中で、必然的になんの価値も無い「人間の尊厳」を一心不乱に追求することで魂の救済を図ろうとしてもよいのだ。勿論、魂など存在しないにしても、だ。