「ビフォア」シリーズ

或る男女の姿を9年ごとにとらえています。


「ビフォアシリーズは現状3作作られている」ということは知っており、最新作である3作目「ビフォア・ミッドナイト」の予告をサラリと見たことがある――程度の状態で、まずは第1作にあたる「ビフォア・サンライズ」をみたわけですが、たとえ、各作品の具体的な中身のことは知らなくっても、この物語が続くことは知っている以上、未来人の視点が介在してしまい、いやこれは「してしまい」というより、むしろ「そのおかげで」面白さにブーストがかかり、結果的には情報量ゼロの状態で観るより、数段楽しく観ることができたと思います。初見のくせに、ワタクシが見ているのは「このキラキラしている瞬間」ではなく「あのキラキラしていた瞬間」になるわけです。たまんねーな、おい。

だから、そこから続けて観た、2作目「ビフォア・サンセット」、3作目「ビフォア・ミッドナイト」は、どちらかというと、1作目を補完していくような印象でした。それら2作品は単体でも面白いけど、やっぱ軸になるのは1作目であって、つまり、95年に起こったロマンチックな出来事はフィックスされており、その上に、2作目3作目のストーリーが盛られていくカンジ。「あの二人はこうなったんかー」という感慨深さより、一巡してから再度1作目をみて、一層「こんなこと言ってっけどこの後は…」と思いたいカンジ。こうなるとエンドレスです。マジたまんねーな、おい。


といいつつ、この補完エネルギーは1作目にのみ集約されていくわけではないところがこのシリーズの素晴らしさだと思います。良い作品というのは色々行間を埋めたくなりますね。
具体例を挙げますと、ワタクシ、2作目の「ビフォア・サンセット」を観た時、ヒロインのジュリー・デルピーさんの過剰な痩せ具合が結構辛かったんですね。さらにいえば、1作目と3作目の間に起こる事態ってのは(重ね重ねになりますが3部作ってのを知っている以上)ある程度読めるわけですから、元々「ブリッジ感」てのを強く感じた。だから、初見時の「サンセット」に関しては、面白いけどそこまではまらなかったのです。が。3作目をみてから、改めて、デルピーさんの激ヤセっぷりを振り返ってみると『彼女があんなに痩せちゃったのは彼女にかけられたある種の呪いの強さのせいだったんだろうな……でも、彼女はその後色々あったおかげでイイカンジの肉付きを取り戻した(?)んだな…』と思えて、印象がめっっちゃくちゃ変わっちゃって、途端に2作目も愛おしくなったのです。ホント各作品の相互作用っぷりハンパないです。

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それにしてもです。このシリーズにおけるデルピーさんの体つきの雄弁さったらありません。1作目での初々しい二の腕と、2作目で一旦激ヤセを経てから熟成された感のある3作目での二の腕――この二つの二の腕を巻尺で図ってみたら、かなり近しい直径がはじき出されるような気がします。が、しかし!それぞれの二の腕の味わい、というか、触り心地は結構違うのではないでしょうか。採れたての鮮魚のウマさと、一旦陰干してから炙ってみた魚のウマさ、たとえ同じ魚であってもそれぞれ違ったウマさがある…!!みたいな。ああ、デルピーさんの二の腕触りながら眠りたいなあ……


当然、経年変化による面白さを感じる部分は他にもあり、中でも、ワタクシがグッときたことの一つは――じつはこの二人、シリーズ通して延々と生(性)と死について話してて、その中身が、時間が経つに連れ、観念的なものからより具体的なものになっていってる――ということです。死に関しては、3作目においては、自身らの経験に加えて人生の先輩方のお話に触れたりする場面があるからかなり意図的なものなのでしょう。性に関しては―とくにデルピーさんが―作品重ねるごとに、より直球、というかエグみを覚えるぐらいの下ネタぶっこんだりしてて、これもまた一旦3作品通してから1作目に戻ったらタマらんもんがあるのです。「今はまだ初々しさ残ってるけどこの後は…」と思うとタマらんもんがあるのです。ああ、本当面白さがループしまくりです。

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と、まあ色々書いてきましたが、結局、ワタクシはやはり1作目である「サンライズ」が圧倒的に好きなのです。その理由というのは、なんと驚くべきことに、ここまで色々書いてきたこととは無関係で、じゃあどこがどう好きなのかというと、「サンライズ」は街の空気感を捉えているから超絶に好きなのです。ワタクシ、映画等の感想において、かように抽象的表現をするのはイヤなのですが、これに関してはどうにも分析出来ない。この3作品、構造は基本全部同じで、言っちゃえばどの作品もイーサン・ホークさんとジュリー・デルピーさんがダベりながら街を歩いているだけ。それは全作品共通のはずなのに、なぜか1作目からは、ちょっとした肌寒さ、逆にちょっとした熱気、さらには雑踏のざわめき、なんなら街に漂う様々な匂いさえ感じてしまう。これは一体なぜなんだろう。
勿論、「サンライズ」は他の作品とは違って、一晩中街を徘徊して過ごし、やがて朝を迎えるという、「祭り」と「祭りの後」が舞台になっているわけですから、根幹の部分でのドラマティックさってのは在ります。さらには、出会って間もない二人がお互い「恋人までの距離」を図ってる様子にハラハラしてしまうドラマティックさってのも在ります。でも、それだけじゃない。「サンライズ」には、それだけじゃないマジックがかかっていると思うんだ。