「そして父になる」「はあ。どうぞご自由に」

非常に丁寧に作られたとても良い作品でした。ハリウッドリメイクの話が出るのも納得の仕上がり。リメイクされた時どんなカンジになるのか想像するに易いシンプルかつ強度の高い絵と脚本具合でとても面白かったです。

で。どのように面白かったのか。一言でいいますと――

福山雅治、クッソウゼー!!!

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いやホンマ、この映画の福山雅治、心底ウゼーわ。ホンマあいつなんなん。大企業に勤めてて?だからちょー金持ってて?当然のことで頭良くって?ギターやピアノも弾いて?ちゅうかそれどころかなんでもできそうで?そもそも男前で?奥さん小野真千子で?そんなヤツが?何当たり前のことでウダウダやってんねんクソが!っちゅうカンジ。ホンマあいつ根っこが腐りすぎとるやろ。「そして父になる」?はいはいごくろうさん「父」になりましたねよかったよかった。あのな、一個言うとくわ。おめー成長したような顔してるけどな、はっきり言ってマイナス一億点やった人間が0点になっただけやからな。クソが。おめーなんかな「父」どうこうちゃうわ。いまようやく人間としてのスタート地点に立っただけじゃ。おめーが今まで見下してきた人間の位置にようやく辿りついただけじゃ。ホンッマ胸糞悪くてしゃーない。アホかっちゅうねん。なんか、あんなクソみたいな人間が大企業に勤めてて偉そうにすることが出来てるこの社会のクソさに対してもムカついてきたわ。全部あいつのせいや。あーホンマ気分悪い。ホンマなんやねん。

いやマジで、おめーが育ててきた息子が自分に似てて欲しいとか思ってんのってホンッマにクソっちゅうかなんちゅうか、どんだけ自分に自信あんねんってなるわ。ちょっと考えられん。ちょっとちゃうな。微塵も考えられんわ。なんなん?神?アナタ神ノオツモリデスカ?正直サイコ?そうやなサイコとしか思えへんわ。ちゅーか「俺みたくなって欲しい」つって自信満々で言うてるあんたの御姿ってアレなわけやろ?常にあのカンジなんやろ?全っ然羨ましくないわ。クッソカンジ悪いただのカス野郎やん。カス。あーブスで貧乏で才能もなくて良かったわ。おめーみてーな自覚のないボッチにならんでよかったわ。友達と楽しそうに喋ってる奥さんの様子みてもなんもわからんカスみたいな人間ちゃうくて良かったわ。いや、ワシもそんなカンジなんかもしれんけど、おめーの大層ご立派な御姿みることで気ぃつけんとなと思えるぐらいのカンジではあるわ。申し訳ないけど。

そもそも、子どもがやな、自分の思い通りの存在になると思っているちゅう思い上がり?ホンマ万死に値するクソっぷりやな。自分が子どもの時のこととか覚えてないん?おめーには自我がなかったん?それとも覚えてて尚そんな態度なん?どの方向でもそんなクソみたいな人間が父親ぶってるんとかマジ胸糞悪いわ。おめーいつの時代の人?2013年?ありえんわー。全っ然ありえんわー。江戸時代の小金だけもってるのドン百姓かと思ったわー。

ちゅうかな、なんか「子どもの取り違えという大変な悲劇の描かれっぷりが弱い云々」ちゅう意見みたんやけど、「はあ?」ってカンジやわ。いや実際の事件のことは知らんで。ちゅうか、実際の事件は悲劇やと思うで。でも、この作品の中では子ども取り違えは悲劇でもなんでもないやろ。この作品に悲劇があるとしたら福山雅治みたいなクソと関わってもた人達が悲劇なだけやろ。マジで何が悲劇なん?実の息子(親)と離れ離れになるのが悲劇なん?実の息子(親)じゃない子と暮らしとったことが悲劇なん?そんな人なんぼでもおるやろ。それを「悲劇」ってゆうとんかな。ありえんわ。いや、ありえんことはないけど。でも、先入観?こうあって欲しいというレールから逸れとるからゆうて批判すんのはありえんわ。
いやホンマむしろ、この映画ん中での取り違えは、「もし、自分の子どもが全然違う環境で育ったらどうなるんやろ?」とか思ったり「もし、全然関係ない子どもを育ててみたらどんなかんじになるんやろ?」とか思ったりすることを見してくれててええんちゃうん。そういうの抜きにして悲劇的事件性を求めて見ようとするのとかなんなん。なあ。なあって。いやまあええわもうええわなんか話ズレてきとるし。いやでもホンマ誰と誰が血ぃ繋がってるとかどうでもええっちゅうねん。ちゅうか、そんなもん関係ないっちゅうんは当たり前のことちゃうんけ。ハリウッドでリメイクしたら、その辺の「当たり前」のことをどう描くんやろな。とりあえず、福山、おめーのクソさは際立つやろな、間違いなく。

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ワタクシ、内容は違えども、この作品と同様「マイナス一億点の人間が0点になる映画」を観て血管ブチ切れそうになるぐらい憤怒したこともあるわけですが、この作品に関しては福山雅治さんのクソっぷりがマジ最高で心底楽しめたわけで、結局、それとこれを分かつものって映画の強度や丁寧さやセンスなのでしょうね。つか、福山さん、方向性はアレやけど家族のために一生懸命なんかしてはるのはしてはるからちょー立派つーのはあるんですけど。

「凶悪」の凶悪さについて

「凶悪」という映画は「冷たい熱帯魚」及び「復讐するは我にあり」の系譜にある映画なのでしょうか。ワタクシはそれちょっと違うんじゃないかなあと思うのです。と、オブラートに包んでみましたが、あきらかに根っこ違うやん。全然違うやん。だって「冷たい熱帯魚」と「復讐するは我にあり」は、ある種の青春映画じゃないですか。「凶悪」にそういうテイストあるかっつったら希薄で、印象としては「今現在の日本の有り様」を切り取った「社会的な作品」ってカンジのほうが圧倒的に強いと思います。勿論、共通する部分はあります。超絶に優れたエンターテイメント作品であるという意味では全然一緒です。だから、まあ「※※系」って言う分にはいいとは思います。でも、「系譜!」とまで言われるとちょっとどうかなあと思わざるを得ないというかなんというか。というわけで、「凶悪」の「社会的な作品」面と「エンタメ作品」面についてまとめてみます。


まず、「社会的な」面についてです。
ワタクシ、つい最近、クラシックである深作欣二監督作品「暴走パニック大爆発」をみまして。んで、ちょー面白いなあと唸った点がありまして、それは何かと言いますと、映画本編の面白さに加え、1976年当時の三宮と大阪の風景が超絶に面白かったのです。この感覚ってここ最近の映画ではあんまし感じたこと無かったんですよね。例えば、「冷たい熱帯魚」で描かれる風景って、リアルな部分はあるけど基本的には――作品のテイスト同様――「劇中でのみ成立する景色」の色合いが濃ゆいんですよね。他のケースですと、80年代の風景を忠実に再現してる作品などがあったりするわけですが、逆に今現在の風景を残してる作品ってのはあんまし無いような気がします――なんてことを感じてたタイミングで「凶悪」を観たわけですが、そしたらこれがもう奇跡的というかなんというか、「凶悪」では今現在の何気無い風景が見事にパッケージングされており、静かに興奮したのでした。何気ない郊外の街。何気無い住宅。何気無い寂れた工務店うちの会社にあるのとおんなじ焼却炉。今まさに目の前にある風景。後々「あ。当時こんなだったわ」となること間違いない風景。これって、今観ている観客にとってもちょーリアリティあってイイと思うし、アーカイブ的な意味でも重要だと思います。そして、「風景のパッケージング」というのは、以上のようなそのまんまの意味に加えて、比喩的な意味でも当てはまるのです。それはどういうことかといいますと――
ワタクシ、この映画が始まってからしばらくの間は「どうして山田孝之演じる新潮45の記者の家庭事情を描くのだろう。こんなの別にいらんやん」と思っていました。しかし、最後までみてようやく「嗚呼。なるほどそういうことか」と思ったのでした。鈍感ですみません。つまり、山田孝之家の描写、及び、実際の事件から改変された或る人物の設定というのは、現在の日本における「良き老後のモデルの無さ」をパッケージングする為のものだったのです。凶悪だなあ、これ。ほんっと凶悪すぎます。もし、未来の人が「凶悪」を見た時「当時の日本って大変だったんだなあ」と思えるようになっていたら良いのですが、今の段階では、インフラ面においても思想面においても全然練られておらず、一向に改善されてく気配がなくってほんとイヤな気持ちになりますね。なんかこのまんまだったら、未来の人も余裕で「当時も今も変わんねえなあ」って感じるような気がするなあ。嗚呼ほんとイヤだなあ。

あ、当時云々に関連してのことを書いておきますと、後世の人にとっては何の何かが全くわかんねー「今が旬のタレントをねじ込みました的キャスティング」が無いのも大変素晴らしかったです。有名どころ以外のキャスティングですと、瀧さんの内縁の妻役の女優さんがたまらんもんありました。あの顔立ちとあのボディ。最高です。というか、あの方、大学時代おんなじゼミにいた中谷さんそっくりで、中谷さんもおっぱい大きかったんだよな。COMA-CHIとか中谷さんとかワタクシの中ではあのタイプの顔立ちの女性は完全におっぱい大きい人ですね――


って、話が逸れちゃいそうなので、そろそろもう一個の課題である「エンタメ」面での素晴らしさについて書いてみたいと思います。
これはもうピエール瀧さんがヤバかったです。最っ高にヤバかったです。リリー・フランキーさん演じる先生もちょーヤバいし、つか、トータルでみた時はリリーさんに軍配あがると思いますが(とくにリリーさん登場シーンは最高でした)、こと「エンタメ」的役割という点においては瀧さんに軍配あがるかなあという印象です。つか、これちょっと先の意見と矛盾しちゃうのですが、ピエール瀧という人物のベースを知っているがゆえにポップさ増してみえてるような気もするんですよね。普段の瀧さんの佇まいがブーストかけてる部分あるのかな。ピエール瀧のことを全く知らん方の意見聞いてみたいところです。
ま、とりあえず、瀧さんのポップさのおかげで、「ぶっこみ」発言はイカンジで軽いし、リンチは子供のイタズラみたいだし、何より何より、山田孝之さんとの面会シーンにおける犯罪の告白がいちいち全部笑えるのです。あれはマジで打率10割で笑えました。でも、衝撃なのは「打率10割だった」ということは記憶として残ってんだけど、あまりにドデカすぎる一発があったせいで、思い出して書こうにも他の安打のことが全然出てこなくなっちゃってて、今まさに衝撃を受けていたりします。その唯一覚えているドデカい一発とは、それはもう観た方は皆さんおんなじだと思いますが、「先生絡みとは全く関係のない余罪をうっかり告白しちゃう」とこが最高に笑えるわけです。困ったことに。いや、別に困らないけど。まあまあとにかく、そこでお笑いエンジンあったまっちゃったもんだから、後は爆笑に次ぐ爆笑で、徐々に改心してきたっぽい瀧が、「俳句を習い始めました」とか言ってみたり、その俳句のクオリティのヤバかったり、つか間髪いれず「ペン習字習い始めました」とか言ってみたり、ってもうさ、文字で起こすとよりコント感増して笑えますね。「どこの時間持て余したおじいちゃんやねん!」ってツッコミ入れたくなりますね。

って……あれ、もしかして、ここでも老人推しになってんのかな……本来はなんの罪もない老人達が嗜むべきものをいけしゃあしゃあと楽しみ、挙句には生の実感を得るなんて……ってカンジで……おいおい凶悪だな……

カナザワ映画祭2013に行きました

今年もカナザワ映画祭に行くことが出来ましたので、観た作品の感想とストーキングの記録を少し。

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【バーニング】をみました
キャンプ場の管理人のオジサンが少年達のイタズラのせいで全身大火傷を負う!退院したオジサンは怪人バンボロ(命名東宝東和)となって少年少女を襲う!武器はハサミ!!
このようなプロットですと「調子ブッこいてキャンプを楽しんでるリア充の上に死と破壊を」となりそうなものですが、フタを開けてみますと全く予想外の展開で「キャンプ楽しそうだなあ。キャンプ行きたいなあ」と思ってしまう仕上がりでした。どうしてかっつーと、キャンプに参加してる人達が、男子女子ともに皆ヤリたいけどヤレないヴァイブス発しておりまして、なんつーのかな、そこはかとない少年少女感みたいなものが漂っててそれがスゴイ良かったのです。やや大柄の男子が過剰に道化を演じることなく女子と接してたり、確実に大柄の女子がイケてる系男子にタックルかまして川に突き落としたりと、絶妙に性が未分化なカンジと、若者特有の脂っ濃い自意識が少ないカンジがとても心地よかったのです。唯一ヤレるヤツも暴発しちゃったりなんかして「もう終わり?」なんて言われるわけですから、「セックス未満」感ってのは意図的なものだと思います。つかさ、バンボロ可哀想すぎ!「燃えるお兄さん」だと謝罪レベル

                       

さて。映画を観終わった後、退場していく方々を何気に眺めていますと、その中に見たことのある方が。「コワすぎ!」シリーズの白石監督が居る!つか、Twitterで「意地でもファントムをみる」旨を発信してらっしゃったし、映画祭関連イベントにも出演されますし、カナザワに来てらっしゃることは知っていたのですが、実際にお見かけすると「おおお!」ってなりますね。まあ、とりあえず、「ファントム」でもお見かけするかもしれないなあと思いつつ、一旦会場を後にしたのでした。

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ファントム・オブ・パラダイス】をみました
今回のカナザワ映画祭は、実際のところ「ファントムオブパラダイス」の爆音上映を観る為に参加したといっても過言ではなく、でも、もしあんましグッとこなくても「ファントム」そのものが最高なのは間違いないし、だから、どう転んでも良いのだ――と若干の自分内保険をかけつつ鑑賞に挑んだわけですが、これが想像を絶する大傑作っぷりを発揮!爆音上映ヤバい!
とりあえず、序盤、爆音でのウィンスローのピアノ弾き語りの段階で圧倒され「ウィンスロー天才すぎるよ……!」と唸りまくり。勿論、ラストのサバト的狂乱からの怒濤の展開もヤバすぎて、あまりのエモさに体温上昇、ついには嗚咽しそうになっちゃって、手の甲をグッと噛むことで声をあげるのを堪えたぐらいでした。もうさ、イオンシネマさんとか19日20日はファントムの日とかにして毎月劇場で流してくれないでしょうか。


さて。ワタクシ「ファントム」を観るにあたって、良い席を確保する為、開場の40分程前に劇場へと足を運び、気合い充分で並ぼうとしたわけですが、徐々に形成される列のワタクシの目の前にはなんと白石監督が居る!つか、途中から二列に詰めて並ぶようにアナウンスあったもんだから、真隣に白石監督が居る!!ちょー話しかけたい!でも実はめっちゃ似ている人の可能性もあるし、その際の言い訳考えなければいけないし、つか、じゃあ、いざ何を喋るかというと全然まとまらないし、つか、監督めっちゃパンフレット買ってはるし、今もスペースバンパイア」のパンフレットめっちゃ読んではるし、つか、誰も声をかけないし、これが都会のマナーなのか?などと考えていると、あっという間に40分が経過し、結局、監督に話しかけることは出来なかったのです。無念。さらには、劇場入りましたら、監督が一足先にワタクシの狙ってた席に向かったものですから、そのまま隣に行くのはちょっとキモがられるだろうと思い、もう一列後ろの、それも3席ほど下手側に行っちゃったりなんかして、諸々無念でした。でも「やっぱその辺がベストですよね!」とちょっと嬉しくもあり一人ニヤニヤしていたのですが。キモいですね

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時計じかけのオレンジ】をみました
時計じかけのオレンジ」の爆音上映、これもちょー楽しみでした。入場待ちの列に並んでる際、テストで出してる音が場外に漏れ聞こえてきたのですが、そん時は鼓膜とともに心も震えました。ヤベーどうしよう!映画館で観ちゃうよ!って。
にしても、やっぱ「時計じかけ」はちょー笑えますね。前振りが効きまくってるから、アレックスが刑務所内で敬虔なクリスチャン演じてるのとか心底アホすぎてたまりません。ルドヴィコ療法中のBGMが大好きな第九だと気づいて発狂するアレックスを眺める博士の呆れ顔とかマジ最高です。あと、二回目の作家宅訪問も大好きでして、呼び鈴が鳴る中、カメラが右手にパンしていくと……前は奥さんが居たところに超絶メガネマッチョが居る!!あの展開とメガネマッチョのビジュアルの過剰さは爆笑必至です。
つかさ、ここまで笑えると、第九もある種のルドヴィコ療法みたく「聞いたら笑える音楽」になっちゃってもおかしくないのに、そうならないのはハンパない「第九」力によるものなのでしょうか。いやホント冗談抜きで「時計じかけ」における第九って、「デデーン!!アレックス、アウトー!!」的になってもおかしくないと思うのです。実際、「雨に唄えば」はちょっと笑えるようになっちゃってるじゃないですか。その分かれ目ってどこにあるんでしょうね。いや、笑えるとこあるけど。不思議。


ちなみに。「時計じかけ」も人気ありそうなので、早目に家を出て劇場に向かったのですが、良い駐車場が見つからずおんなじ道を二度三度往復してから劇場に到着しましたら、既にそこそこの列が出来てまして。慌てて列の最後尾に向かって小走りで駆けていますと、最後尾から4列ほど前に白石監督が居る!今度こそお話がしたい!でも早く並ばないと、今、映画みてるムービーアスリートの皆さんが退場してきはったら、大半の方がそのまんま次の作品みる為に並んじゃうのでスンゴイ後方に並ばざるを得なくなっちゃう!!と泣く泣く列に並んで白石監督の後ろ姿を眺めるのでした。

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スカーフェイス】をみました
2013年のカナザワは、特別企画「午後十時の爆音映画祭」の「時計じかけ」に続けての「スカーフェイス」で〆ました。いやあ「スカーフェイス」、終盤の銃撃戦では爆発音で椅子がビリビリ震えちゃったりなんかしてちょー最高でした。一応、眠気対策でメガシャキ飲んでみてたのですが、それと劇中のコーク描写がナゾのプラシーボ効果を巻き起こしたのでしょうか、途中から目は冴えるし、ちょーアガるしと、ちょっとヤバいことになってしまいました。
つか、「スカーフェイス」ってじつに痛々しいというか、残酷な話ですよね。だってさ、「いくら成り上がったとしてもそもそも卑しい人間には栄光など訪れない」つってるわけじゃないですか。それってわりと酷いと思うんだけど。まあ、それを反転させて「品格が伴ってもいねえのに調子こいてる成金野郎はいつか痛い目に遭うんだなあ」と思いながら観てみますととってもスッキリした気持ちになるわけで、ぶっちゃけワタクシ、その気持ちを胸に抱いてクソみたいな平日をやり過ごそうと決めた次第でした。

ちなみに。ちょー私事なのですが、この度「スカーフェイス」観てたら、トニーモンタナのビジュアルが、中高大の同級生、どころか一時期バイト先まで一緒だったクボ君とそっくりだなあと気づいたのです。ちなみにクボ君、どのような人物だったかといいますと、高校ん時「俺、もしオンナと付き合うことがあったらお前らに一万円払うわ」などと言っちゃったりする謎のこじれ方してた人物でして、んで、大学生になったらなったで「この前、めっちゃ飲んで気づいたらラブホで寝てたわ。一人で。途中までオンナと一緒やったのに。でも絶対ヤったわヤったはずやわ」とか言っちゃったりしてて、もう、何の何かわからん切ない男だったのです。そういや、バイト先の社員さん達とクボ君とワタクシとで「がんこ」カニ喰い放題に行ったことあるなあ。で、クボ君、調子に乗って喰いまくったらカニの毒素にヤラれちゃって、帰りしの車で嘔吐しちゃったよなあ……うわあ……アレちょー切なかったなあ……切ないの思い出しちゃったなあ……ってなってトニーモンタナの切なさが8割増しぐらいになったりしました。有難う、クボ君。

ま、そんなこんなで大満足で劇場出たわけですが、最も時間的な余裕があるこのタイミングでは白石監督は居ない!!人生とはそういうものですね。

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【まとめ】です
カナザワ映画祭はやっぱ最高です。映画観るだけだったら、んなもん家でDVD観ればいいじゃんって意見もあるでしょうが、劇場でみると起こるマジックってのは間違いなくありまして、それは時には人生を狂わせるぐらいハネたりするわけです。カナザワ映画祭って、主にスケジュール面で負荷があるわけですが、その負荷がマジックを引き起こす要素になってるような気がします。観客に媚びるような快適さなんていらない!ホント、未体験の方は是非味わってほしいなあと思います。マジでクセになりますよ。

「マン・オブ・スティール」

全く期待せずに観に行ったのですが、これが存外面白くって。

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諸々いきなりの展開で申し訳ありませんが――
バットマンの世界を現実社会に即した形でリアルかつシリアスに描いてみせた「ダークナイト」というシリーズがあるじゃないですか。その「ダークナイト」をです、「オバQその後」を劇画調で描いてみせた「劇オバ」的作品だと仮定してみましょう。そうした場合、「マン・オブ・スティール」はどういったものになるかっつーと、オリジナルのオバQのプロットをそのまんま使って、でも絵柄だけは劇画タッチで描き直した作品ってカンジになると思うのです。わかりますでしょうか、このニュアンス。ようするに、「ダークナイト」は、アメコミヒーローを現代に蘇らせるにあたって、もっともらしいプロットを用意して、絵柄とプロットの擦り合わせを行ったわけですが、「マン・オブ・スティール」は「Qちゃんが犬に追いかけられてひと騒動」や「Qちゃんが晩ご飯全部食べちゃってひと騒動」という内容はそんまんまで、でも、絵柄だけはちょーカッコいい劇画タッチで描いているわけです。つまり、「炎上する油井を全力で受け止める」や「レッドネックのトレーラーを全力で破壊」というシーンは、宮谷一彦が「犬から全力で逃げるQちゃん」を描いているようなものであり、谷口ジローが「ちょー旨そうに晩御飯食べてるQちゃん」を描いているようなものなのです。どうですか、イビツでしょう。しかし、それを圧倒的な画力で描かれるとやっぱちょーカッコいい。つか、あまりにカッコいいもんだから、そのイビツさ込みでさらに良くみえてきたりするわけですから、映画とはじつに不思議なものですね。
いやホントその辺は不思議な話でして、お話として整合性が取れていたら面白いかというとそういうわけじゃない。つってそう書くと「ダークナイト」シリーズが整合性を持った作品みたく思われそうですが、全然そんなことはなく、中でも「ダークナイトライジング」は完全に底が抜けちゃってるわけで、で、個人的には底が抜けちゃってたがゆえに「ライジング」は最高に楽しめたわけですが、「マン・オブ・スティール」はそれ以上のアレなヴァイブス、つまり「どうせ色々練っても底抜けるんやったら最初っからもっともらしさとかええやんけ!カッコエエ絵で圧倒したれや!」という逆ギレに近い潔さがありまして、それがハンパない風を巻き起こしているような気がします。
ワタクシ、先日書いた「パシフィック・リム」の感想において「プロレスは入場シーンが感動的ならそれで元取れる」と書きました。というか「試合は次の入場への前振りにすぎないのだから、試合そのものは別にどっちでもいいかなあ」レベルのことさえ書きました。が――「マン・オブ・スティール」はプロレスの試合そのものがちょー面白いのです。これはなんといいますか、戦後間もない頃、アングルとかなんとかチマチマしたことを抜きにして、人々が力道山の空手チョップに熱狂していたものと同様のカタルシスがあるのかもしれません。と言っても勿論「今、この時代において説得力のある空手チョップをみせる」という意味ではありません。「当時の空手チョップに対する熱狂とおんなじぐらいのモンを感じてもらうには、2階席からトペスイシーダしかないやろ!」という意味です。なんと素晴らしいおもてなしの心でしょうか。その心意気があまりにも素晴らしいものですから、これまでの発言を全て抹消し「やっぱプロレスは試合が面白くってなんぼやで!!」と叫びたくなりました。

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ただし。大変残念なことに「マン・オブ・スティール」は「これは俺の映画だ!」となる類いの作品では無かったりします。だって、スーパーマン、ちょーカッコいいし、ちょー強いし、ちょー優しいし、ちょー飛べるし、ちょー目からビームでるし、ちょー透視できるんですもの。ワタクシ、これらの要素は一個足りとも持っていないもんですから、ちょー面白いんだけど、スーパーマンに対して全然感情移入できなかったのです。加えて「パシフィック・リム」を見終わった後みたく、「イェーガーを操縦してるような気持ちで車を運転して帰宅」的な妄想シュミレーション遊びも出来ないわけで、この辺りの余韻を引きずるフック性が無いっつーのはちょっと残念だなあと思います。でも、それはどうしようもないんですけどね。だって、スーパーマンはスーパーなんだもの。それで正解なんですよね。スーパーマンはスーパーなままでいてほしい。もし、スーパーマンがちょー感情移入しやすい我々に近しい存在だとしたら、それはスーパーじゃないからスーパーマンじゃなくなるんですもの。
そんなこんなもあり、映画見終わった後、「パシフィック・リム」Tシャツは欲しくなっても、「マン・オブ・スティール」Tシャツはちょっと二の足を踏むっつーか、それ買ってもどうせ「S」だし、いや、いくらクリプトン星では「希望」を表すっつっても、地球じゃあ誰がみてもスーパーマンの「S」だし、つか、ガリガリガリクソンだし――と思っていたのですが、なんか、この感想書いてたらどんどん好きになってきちゃってて、そういう諸々の照れくささを振り切って、勢いで「S」のTシャツ買っちゃってもイイかなあ!ってなってたりします。

「パシフィック・リム」3D吹き替えと2D字幕について

先日観た「パシフィック・リム」は2D字幕ver.だったのですが、3D吹き替えも気になったので観てきました。結論から書きますと――

3D吹き替えも最高でした。
が、ワタクシ的には先に観た2D字幕のほうが断然良かったので、その2つを比較することで、ワタクシにとっての「パシフィック・リム」とは一体どのようなものなのかを考察してみたいと思います。

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まず。3Dに関してです。
とりあえず、ロボと怪獣の戦闘シーンはどんだけ飛び出てんだろう?とドキドキしながら観たのですが、なんとなんとその辺はあんましで、逆に「あのう、そこは別にイイんじゃないですか?」ってとこがわりと飛び出てて、うーん、こんなカンジの飛び出しなら別に2Dでいいんじゃないかなあと思いました。いやほんと、薄ぼんやりした3D演出をいちいち真面目に観ていましたら、途中から焦点が合わんくなっちゃって、怪獣とドリフトした直後のニュートみたくなってしまいました。ま、そんなこんなもあり、おのずと「パシフィック・リム」における3Dについて考えてることになったわけですが、その結果、ワタクシ、この作品に関しては別にそもそも飛び出しを求めていないなあということに気付いたのです。
パシフィック・リム」って、プロレスみたいなものって言われてたりするじゃないですか。それには全然同意するのですが、一口にプロレスつっても切り口は色々ありまして、例えば、ワタクシなんかはプロレス観る時、どこを重視するかというと、基本的には入場シーンを重視するんですね。入場シーンが燃えたり泣けたりしたらそれでもう元取れたってカンジ。肝心の試合は二の次です。つか、「試合は次の入場への前フリ」ってレベルだったりするので、プロレスってワタクシ的には入場が全てなのかもしれません。
この感覚を「パシフィック・リム」に当てはめますと、ワタクシはイェーガーが発進するところや怪獣が街を襲いにくるところを延々観たいわけです。んで、それは極端なことをいえば、止め絵でもいいぐらいの勢いだったりする。止め絵で圧倒的な巨大さを表現してくれてたらそれでもう大満足なのです。つまり、止め絵でもいいぐらいなのですから、べつに飛び出すとかそこまでして頂かなくってもよかったのです。

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続いて。吹き替えに関してです。
吹き替えも正直なところ「そういうことじゃないんじゃないかなあ?」と思うところがありました。とくに、シャアとかアムロとかってなんつーかネームバリューへの依存度高めで、実際のところは絶妙にキャラとマッチしてなくない?と思ってしまったのでした。なんか「知ってるから面白い」的な、ある種の閉鎖性につながってるつーかなんつーかそういうヴァイブスを感じちゃったのです。いや、でも千葉繁とか全然良かったので、やっぱマッチしてるかしてないかの問題のような気がします。が。つってつって、パッと聞いたカンジがマッチしていたらイイかっつーと一概にそうも言えないなあとも思い、そして、そここそがワタクシにとってのこの作品のキモのような気がします。どういうことかっつーと、ワタクシ、字幕版観た際、森マコ演じる菊池凛子さんに萌え狂ったのですが、吹き替え版だとなんかイマイチハマらんかったのです。

突然ですが、アメリカンポルノに出演してる日本人女性って、なんつーか絶妙にアメリカナイズされてたりするじゃないですか。絶妙な日焼けしてたり、絶妙なメイクしてたり、絶妙な色入った髪型してたり、「ンシー……!ンシー……!イエス……!イエス……!!」ってカンジのアエギ声になっちゃってたり。いや何が言いたいかっつーと、菊池凛子さんってビジュアルだけみると「ンシー……!ンシー……!」って言いそうじゃないですか。ちなみに「ンシー……!ンシー……!」つーのはなんなのかっつーと、セックスに対する積極性であり演劇性だと思うのですが、菊池さんの場合、積極性醸し出しつつも、基本、情緒があってすげー良かったんですよね。んで、演劇性に関してもイイ感じで抑え気味で、なんつーか諸々リアルなんですよね、リアル。身体つきや背丈含めリアル。この塩梅がホントちょー良くって、なんつーか、日本的な様式美でありそうでなさそうで、アメリカンな様式美でありそうでなさそうで、従順そうだけど男性に媚びているわけではなく、かといって過剰なアエギ声で圧倒するわけではない、なんとも複雑な味わい深さがあったんですよね。で、その味わい深さというのがですね、最初から見えてたわけじゃなくって、途中から徐々に気付いてって、つまり、先の3Dの話とは真逆で、最初はボンヤリしてたのに、気付いたらパキパキにピント合ってて、その結果ちょー好きになってて「あああ!菊池凛子になりたい!」ってなるレベルで萌えちゃってたんですね。

それがです、吹き替えの場合ですと「パッとみたカンジはアメリカンポルノだけど中身はジャパニーズAVマナーに沿った作品」って風に見えちゃって、ま、それはそれですんなり入ってきちゃうわけなんですけど、同時に「でもこれだったら、わざわざアメリカンポルノである必要ないし、なんなら長瀬愛でいいかなー」ってところもあって、気の緩みと紙一重の安心感からでしょうかね、正直な話、クライマックスは寝ちゃってたんですよね。でもね――

最高なんですよね。

「パシフィック・リム」

超面白かったです。

最高です。



映画を観終わった後、菊池凛子になってイェーガーを操縦しているような気持ちで車を運転して帰りました。この映画を観れば、たとえ85年型のサビサビのミラに乗っていたとしても、凛とした心持ちで世界と接することが出来るでしょう。菊池凛子が救うのは「劇中の世界」だけではないのです。ようするに――


最高なのです。

「風立ちぬ」

【ここんとこ続いてますが例によって予告の感想から】

一番はじめにみた「風立ちぬ」の予告は、カット数が極端に少なかった為、『あれ?この映画、もしかしてまだ全然できてないんじゃね?結局間に合わんくて、後半は絵コンテそのまんま出してくんじゃね?』なんて思っちゃって、ちょーニヤニヤしながらこれは絶対観たいなあと思ったのでした。だって、そういう事故的な作品も面白いじゃん。なんですが、その後にみた4分バージョンは、一転、超絶に素晴らしくって『邪悪なこと考えちゃってすみません……!』と猛省、前向きな気持ちでこれは観ないと!と思ったのでした。ホントあの予告は素晴らしかった。関東大震災を経て大戦へと突入していく日本。美しい自然の風景と火の海に包まれる街。宙を舞う零戦と紙ひこうき。それらを見事にまとめ上げる荒井由実の「ひこうき雲」。宮崎駿監督は、震災を経て右傾化、というか白痴化する現代日本と真っ向から対峙する作品を作ろうとしているのではないか。旧予告がスカスカだったのはギリギリまで勝負してるからなんじゃないのか。これは大林宣彦監督の大奇作であり大傑作である「この空の花」と同様、ジジイのパトスが爆発してる大変な作品になっているのではないか――とちょー盛り上がったわけです。



【んで本編の感想】

まず。前半は、音楽や台詞を極力抑えた演出のおかげでしょうか、監督が切った絵コンテが滲み出てくるかのような素晴らしいカットがバッカンバッカンでてきます。最高。飛行シーンのフンワリ感は安定のクオリティですが、この作品においては――過去作ではあんまし感じたことなかったんですけど――強烈な絵コンテ力のほうにやられまくりでした。パッと見は大変地味ですが、でも、ホント「絵」だけで全然観れちゃう級の良さで、スカスカの予告みたとき感じた「絵コンテそのまんま」の可能性が、まさかこんな最良の形で提示されるとはまったく予想外でした。
予想外といえば、この映画の面白さは予告から想像したものとは全く違うものでした。いや、「違うもの」つーかなんつーか、『そうだわ!宮崎駿ってこういう人だったわ!』と思い出したというかなんというか。そう、この映画って宮崎駿さんそのものだと思うのです。じゃあ予想外じゃないんだけど、ま、とりあえず、主人公の堀越二郎宮崎駿さんのシンクロ率がハンパないのです。庵野監督の声優起用もちょー良くって、彼のたどたどしい声優具合は、堀越二郎の浮世離れっぷりにマッチしまくりで、じつに見事なチョイスだなあと感心しました。

ところで。この作品を観られた方の中には、「堀越二郎が殺人マシンを作ることに対してあまりにも無関心すぎる」ように映り、それがノイズになってらっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。でも、それって全然表層的なものにすぎず、というか、宮崎駿さんご本人が醸し出してきた「兵器好きの戦争嫌い」的態度に引っ張られているような気もします。というのは、ワタクシはそういった印象とは真逆で、この作品において宮崎駿さんは「技術の進化とその弊害」というべきものに対してきっちり向き合ってるように感じたのです。そして、そこにこそ感動した――どころか奮い立たされたのです。

つまり、この作品って「もののけ姫」における「タタラ場」の話とおんなじ内容なんだと思います。そして、それは宮崎駿さんの思想のキモなんだと思います。自然のことは圧倒的に好き。人間のことは圧倒的にキラい。しかし、だからといって、自然を克服しようとする人間、言い換えれば、文明社会を発展させようとする人間の姿勢を否定することはしない――という立ち位置。これって矛盾してないし偽善でもないと思います。いや、矛盾はあるんだけど、なんつーか、宮崎さんは、そういった、どうしようもない人間の「業」みたいなものと向き合っているように感じたのです。これってすんごい誠意ある態度ではないでしょうか。仮に、0か100かの選択をすりゃあ容易にカタルシスを得ることはできます。しかし、宮崎さんはそういうズルをしなかった。大震災や大戦という、圧倒的破壊から生じる「負のカタルシス」とでもいうべき描写を、ごくごく僅かなものに抑えているのもそういう理由からのように思えてなりません。パトスの爆発は無かった。しかし、恐るべき熱気が行間からはジトリジトリとにじみ出ている――

現代社会を生きる我々が享受している様々な文明の利器は、無数の屍と無数の瓦礫の上に成り立っています。その行為の胸糞悪さを踏まえ、クソはクソなりにより良い世界の誕生を目指し――といっても明確なゴールなんてみえないし、そして、みえないから、その道程で何回何十回何百何千回と『俺らやっぱクソだなあ』と思って挫折しそうになることは必至なわけです――が、それでもやっぱ、その都度立ち上がり、びっしゃびしゃのクソにまみれながらも、尚、生きねばならんのですよね。