予習せずに「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」を観ました

アベンジャーズシリーズは「アイアンマン」の1と2をボンヤリ観たことがあるぐらいなんですが、一度こういうパターンで作品に触れるのも面白いのではないかということで、全く予習せずに観にいってきました。なので「そんなの知ってるよ!」と思われることもあるでしょうがご了承下さい。とりあえず、キャプテンアメリカ最高!!ということだけ先に書いておきます。詳しい話はちょっとキャップを意識してみてメモ書きっぽく箇条書きで。

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オープニング、キャップがすんごいイイ姿勢でダッシュしてる時点で悶絶しました。か、可愛すぎる……というか、わずかアレだけでキャップがどういうキャラか分かります……ス、スゴい演出だ……。

アップになったらなったで、パンプアップしまくりのボディに対してお目目が絶妙にショボショボのキャップに釘付け。なんなんですか一体。マジ可愛すぎます。

といって、キャップは可愛いだけではなく、とてもかっこよかったです。とくに銃撃等の攻撃をかわす際の盾の使い方が最高でした。ジツのみを追求したスタイリッシュさとは無縁のあの姿勢。桜庭や金原らUインター勢の亀状態を思い出さずにはおれませんでした。ああいうリアルなカンジとてもイイですね。

しかし。世界観はリアル指向でも、キャップの格好はゆうても星条旗モチーフなわけで、その辺のギャップもあり、正直なところ「キャップちょっとバカの人みたいだなあ」とも思ってしまいました。が。話が進むに連れてそれも真っ当にカッコイイな!と思えてくるし、挙句、なんの思い入れもなかったクラシックスーツをみて「おおおおおおお……!」となってしまいました。それもこれもキャップの包容力によるところでしょう。

そういえば、キャップ、オフの日も背中に盾背負ってるんですね。愚直!最高!

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ブラックウィドウ最高でした。なんなんですか、ブラックウィドウ。超絶に可愛いじゃないですか。顔も身体も全部のパーツがドン!ドン!ドンッ!!ってカンジでたまりません。あまりにもボリューミーなもんだから、アップになると「吹き出物とか大丈夫かなあ…」と少し心配になってしまいました。終始目が離せません。恋です

ブラックウィドウは市街戦んとき、ダッシュで逃げるところが最高でした。なんつーんだろ、手に汗握るとかじゃなくって、スタイリッシュとかじゃなくって、「うわー全力で逃げてるわーwww」といったカンジ。リアルつーのかな。なんつーのかな。恋かな、恋だな。恋のせいでスゲー良くみえたんかな。

というか「ダッシュが素晴らしい映画は本編も素晴らしい」という定義作ってしまいそうな勢いです。恋って怖いですね。

とにかく、ずっとずっとブラックウィドウを愛でていたくなったのですが、それはそれでコッテリしすぎな気もするので、彼女に関しては「もうちょっと食べたいな」「もうちょっとオッパイの谷間を見たいな」ぐらいが丁度いいのかもしれません。いや、でも、許されるならずっとみていたい……!

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悪の組織「ヒドラ」というネーミングって、「ハイルヒトラー→ハイルトラー→ハイトラー→ハイドラ!!バンザーイ!バンザーイ!」なんですね。直球、というか、なんてバッチリな言葉を持ってきたんだと感心しました。
にしても、どんな理由があろうとも権力者が個人の自由を奪って社会を管理しようとするのは「絶対的に悪」ですよね。つーことは、今の日本の総理大臣、あいつ間違いなくハイドラやろ。いや、でもそれはハイドラに失礼かもしれません。だってあいつマジでペラッペラのバカだもん。あんなバカ、ハイドラみたいな誇り高き集団は加入許さんやろな。まあどっちにしても自由を奪おうとする人間なのは間違いないわけですから、キャップ、同盟国のよしみであのバカしめてくんないかな

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「前作やアベンジャーズ見とかないとダメなのかな?」という懸念はありましたが、別に大丈夫じゃないですかね。というか、見といたらより楽しめたかもしれないけど別に大丈夫でしたよ。全然大丈夫。雰囲気で何がどうなっているか大体分かる親切設計になっていますよ。

本作を分岐点として、人生の流れを変えてく登場人物は沢山いるわけですけど、皆が皆、そこに至るまでの前日譚描かれてるわけじゃないですよね?概ねの流れはスミソニアン博物館を利用してすげー要領良く語ってくれてるし、あとは推測ですけど、ファルコンの前日譚とか無いんでしょ?逆にフューリーの前日譚はあるのかな?ま、あろうがなかろうが別にエエやん?ってカンジです。

前作の存在がハードルになっちゃって観るのやめちゃう人がいらっしゃったらそれは勿体無いなあと思いますので、もう一度書いておきます。時間ないんやったら予習とかせんくてイイって!

というか、「過去作を観とかないとダメ」ってのはある種のスノビズムのような気がしますし、それって突き詰めていったら「リュミエール兄弟を観ておかないとダメ」って話になりませんかね。ならないですね。でも、別にさ、そこまで考えんくていいんじゃないですか、娯楽なのに――とは思います。と、昨今の過剰なまでの予習文化に対して警鐘を鳴らしてみました。

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最後に。エンドクレジット中の「to be continued」映像、あれ正直ちょっとマイナスな印象受けました。「より巨大な敵が待っているのだ!」つって言われるとさ、「ええ……じゃあここまでの手に汗握る2時間って全然ショボいレベルの話だったの……?」ってなっちゃうじゃないですか。といいつつ、次も楽しみですけど。これは悩ましいところですね。「エンドロールは見ない」ってのも手だよな。いやでもそれはやっぱ勿体ない気がしますね。うーん悩ましい。

「スノーピアサー」と「新しき世界」

【スノーピアサー】

近未来。生物が住めなくなった極寒の地球の上を、人類の生き残りを乗せた列車がグルグル走り続けています。最後方の車両で虐げられた生活を送る主人公たちは革命を起こそうとします。

ネタバレはしてますね。
ポンジュノ監督、前作である「母なる証明」がパート構成バキバキにキマった作品だった為、次は一体どうするんだろう?と思ってたら、これはこれは。スゲー変化球投げてきましたね。吃驚です。だってこの映画、第1パートでいきなり「世間一般でいうクライマックス」みたいな展開みせるんですもの。で、え?え?と思ってたら、なんとその後も各パートごとに世間一般でいうクライマックス的なものを持ってくる。とみせて。って、なんつーアレな構成なんですか。「母なる証明」である種の完成形作ってしまったから実験してみたくなったのかな。じつに面白い人ですね。
で、です。構成もさることながら、中身もやはりなかなかのもので、粗を指摘し出したらキリがない超絶設定のもと、陰惨さと可笑しさをドバッとまぶしつつ、直球なテーマを寓話的に描いている。なんという捻れ具合でしょう。書いててなんの何かよくわからなくなっています。でもまあ、ようするにこの作品における列車とは、明らかに我々が生きる社会そのものであり、つまり、この作品はSFというより、教訓めいた童話のようなものかもしれません――。

一度動き出した列車は容赦無く一方向に進むのみで、その運動下では乗客個々人の瑣末な意思など蔑ろにされる。しかし、だからといって乗客は無条件でその運動に従わなければならないわけではない。―そうすることによってどうなるかはさて置き―乗客は他の車両の様相を知ることが出来る。なぜなら、乗客には自由意思があるのだから。当然、私のような、お偉い方のおっしゃる言葉を何の疑問もなく素直に受け入れることができない性根の捻じ曲がった人間が、何かを掌握し何かをコントロールしたげになって調子ブッこいてる権力者に向かって靴を投げつけることも出来る。たとえそれが絶望的に価値のない10インチのケイオスだったとしても、そうすることは出来る。しかし。そのケイオスは、より大きな意思によって「仕組まれたもの」かもしれない。ということは、我々には自由意思はないのか?存在の意味はないのか?否。たとえ仕組まれたものだとしても、我々が意思を持って存在しているということは紛れもない事実なのである。もしかしたら、我々はその「囚われの自由意思」を貫き通すことによって、監獄から脱出することが出来るかもしれない。もちろん、脱出出来たとしても、外界が光り輝く自由の楽園である保証などない。というより、おそらくそこはやはり監獄同様過酷な世界なのだろう。しかし、それでも尚、我々は監獄を破ろうとしなければならない。壁をぶち破った向こう側に、さらに大きな壁があるとしても、目の前の監獄を破ろうとしなければならない。

プリズナーNo.6ですね。

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【新しき世界】

会長の急逝により跡目争いが勃発したヤクザ系企業ゴールドムーン。その組織の中で、長年に渡って潜入捜査をしてきた主人公ジャソンは、またしても新たな指令を強制的に決行しなければならなくなるのでした。

どこがキモかっつーのは書いてますね。
「新しき世界」、韓国産のヤクザ映画ということで、イイ顔した漢達が仁義通したり裏切ったり暗躍したり表立って抗争したりしまくる、東映三角マーク的な内容かと思って見に行ったのですが――いやあ、この作品はもう、東映云々じゃなく、というか、韓国映画云々つーレベルさえ超えた普遍的面白さを持った作品なのではないでしょうか。いやホントとにかく映画的ルックスのよさがハンパない。カッコよすぎます。最高に好きです。といいつつ、ワタクシ、所謂「完成度が高い映画」が好きかっつーとそうでもなかったりするわけで、じゃあ具体的にこの作品のどこが良かったのかといいますと――

キモは、主人公ジャソンと彼の兄貴分にあたるチョンチョンが、韓国社会の中では差別されている存在である華僑出身だということです。劇中、そのことに対してちょいちょい触れはするのですが、じゃあどう差別されてきたかっつーのは具体的には描かれず、その辺は全編に渡っておおむねフワッとした描写をするにとどめています。しかし。終盤、主人公がどういう言葉をかけられて潜入捜査官になったのかを回想するシーンがあるんですけど、そこでの僅かな会話と、劇中、ジャソンが置かれている状況から、彼がこれまで韓国社会の中でどのように生きてきたかが突然浮き彫りになるのです。そして、それは同時に「ああ…だからチョンチョンはジャソンを信頼し、ああいう行動を取ったのか…」と理解できる。つまり――チョンチョンはジャソンのことを「ブラザー」と呼ぶのですが、それは、ヤクザ世界における義兄弟であるだけでなく、ただ波長があったからっつーだけでもなく、あの二人は同胞的絆で結ばれていたんだってことが解る。これがもうおそろしくミニマルだけどおそろしく効果的な演出でヤバかった。あの僅かな回想シーンでこの映画の価値はグググと上がった。冗談抜きで全シーンの良さが跳ねましたし、それを踏まえてのあのラストがさ。ヤバすぎましたね。深みがありすぎます。マイノリティである彼らがさ、初めて寄り添える人を見つけたカンジっつーのがビンビンに出てんですよね。思い出すだけで泣けるわ。
なんにせよ、この作品のテーマが「無自覚的に利益を享受するマジョリティたちに対するマイノリティの叛旗」であるのは間違いなくって、だって、ジャソンはさ、終盤、或る人物たちを使って、今まで自分を散々こき使ってきた警察の奴らのタマを取りにいかせるんですけど、それを誰に命じたかというと、華僑同様、韓国社会では虐げられた存在である「延辺朝鮮族」たちに命じているのです。これは燃える。これは燃えます。韓国社会の中の中国人である華僑。中国社会の中の朝鮮族である延辺人。ともに国境という人為的なモノに翻弄される者たち――。うーん。なんとも迫るものがあります。だって、人為的に作られたマジョリティとマイノリティの軋轢というものは、もちろん韓国社会だけに存在するものではなく、人類に普遍的にあるものなんですもの。とても哀しい話ですが。

「天使の分け前」における盗人問題

この映画、めちゃくちゃ好きな類いの映画でした。なにがどう好きだったのかといいますと――登場人物達のキャラ立ち?ええ、良かったですね。歯がないヤツは大体トモダチ。でもそれが肝ではありません。じゃあ風景?スコットランドの街並みや大自然、良かったですね。でもそれも肝じゃない。音楽?音楽もイイ。編集?それもイイ。時間?もちろんタイトでイイ。あれもこれもそれも?あれもこれもそれも素晴らしい。でもあれもこれもそれも肝じゃなくって、ワタクシ的にはこの映画、テロ映画つーところが一番キたのです。テロ映画つーのが肝。テロ映画はホントに最高です。
しかしです。Googleでこの映画について検索してみてますと、最初のほうに出てくるYahoo!映画の評価はそんなに高くない。で、どこがどうダメだと思われてんだろう?と気になり、低評価を下しているレビューを読んでみたのですが、それがまああああ悉く納得できないんですね。だから、ワタクシはワタクシの感想を書きます。これは、一個人によるYahoo!映画レビューという何かのなにか」に対するテロルなのです

スコットランドのクソみたいな地区でクソどうしようもない生活を送っているロビー君。彼は子供が生まれることもあり、一刻も早くこのクソ生活から脱却したいと思っています。その辺りを考慮してくれたのでしょう、彼が直前に起こした傷害事件に対して裁判所は実刑を求刑せず、社会奉仕活動に従事することを命じます。ロビー君はその活動の中でちょうイイ指導員やちょうバカな悪友たちと出会い、そして、なによりウィスキーを通じて自分の才能と出会います。そんなこんなで真人間になろうと頑張るロビー君ですが、周囲の環境の劣悪さはハンパなく、なかなかその泥沼から脱却出来ないのでした。


まずさ、ロビー君の境遇のどうしようもなさがスゴいんですよね。住むところが無いんですよ。親父同士のケンカが息子の代にまで及んでいるんですよ。街そのものが発するDQNヴァイブスが尋常じゃないのです。俄かに信じ難いレベルないのです。でも、これ実際にそういうもんなんでしょうね。だってさ、いうじゃん「イギリスの労働者階級の人がそこから脱するには、フットボール選手になるか、ロックスターになるか、ギャングになるかしかない」つって。じゃあさ、才能もなんもない人間がただただ単純に「まともになりたい……!」と思ったらどうすんのさ。諦めてクソみたいな階級社会に順応せざるを得ないということじゃん。つってさ、単純に順応出来る人はいいですよ。でも、ロビー君みたく、なまじ自我に目覚めてしまった人にとってはそれはもう地獄でしかないですよね。理不尽極まりない。

そんな泥沼状態の生活を送っていたロビー君でしたが、或る日、彼は rarest of rare とでもいうべきウィスキーがオークションにかけられることを知り、それを盗みだして一攫千金を企むのでした。


ここですね。ここ。問題は。Yahoo!映画の低評価レビューは、大体この行為に対して、「なんだかんだいってロビーの奴、犯罪犯そうとするし、全っ然反省してないやん。マジ最悪やな」とおっしゃられている。あのですね、だから、ロビー君が生きている社会はマジでどうしようもないっつってるじゃん。そもそものベースがまともな社会じゃないんだよ。まともな方法論でまともになれる可能性がない社会なんだよ。って、だから、そのこと明確に描いてるじゃん。何度同じこと書かせるんだよ。なのに、それを大してなんも考えず、我々の道徳律に当てはめて受け取ろうとする感覚は全然理解できません。大体、今の日本人は自分の常識を世界の常識だと思っている幼児みたいな人が多すぎやしませんか
というかです。そもそもです。犯罪ってさ、加害者と被害者がいてこそ成り立つわけですよね。じゃあ、ロビー君の行為が犯罪というのなら、それによって誰が被害を被るのでしょうか?あれを盗むことによって誰が損するのでしょうか?つか、ロビー君一向が盗もうとしたウィスキーの出処ってどこなのでしょうか?つまり、これさ、例えば「ギャングの持ち物だからイイんだよ」ってレベルの話ですらないからね。ギャングの持ち物だったらギャングは困るけど、このウィスキーはそういうもんですら無いからね。「このウィスキーを作った蒸留所は60年代に閉鎖されている」「樽がみつかったのはすげー離れたとこにある全然関係ない倉庫」「そこから鑑みるに、どうやら蒸留所同士で交換が行われたようだ。が、それは推測にすぎない」んですよ。そんな、誰のものかっつーのがイマイチ判然としないウィスキーをオークションにかける行為は正当な行為なんでしょうか?

つまり、ロビー君一向の盗みは、味もわかんねーのに出自だけを有り難がって、バカみたいな金額でウィスキーを取引してる奴らに対するテロ行為なのです。そう、これはスノビズムファンダメンタリズムに対するテロルなんだよ。つかさ、どっちかっつーと、我々の側こそがスノビズムファンダメンタリズムによって色んなもんを盗まれてんじゃねーのか?このウィスキーがそうであるように!!!とさえ思えてきます。それをチクチクチクチク、今の日本人はちょっと程度が悪そうな人がいるかと思ったら、途端に正義感振りかざして優位に立ったげになってオナニーしてる人が多すぎやしませんか。と同時に、奴隷根性が身にしみつきすぎててさ、ほんと自分で自分に腰紐をつけて喜ぶ人が多すぎやしませんか。つかさ、最悪、自分で自分に腰紐つけるのはイイよ。でも、それを周りにまで強要するのは止めて頂けないでしょうか。いやマジでさ、盗人を擁護してる、というか加担してるのはどっちなんだよ

ちょっと話が逸れてしまいましたが、彼らが最後に手に入れたものってのも大変よくってさ、でも、まあそれは見てのお楽しみということで具体的に書くのはやめておくとします。が、ようするにそういうことです。そこには何があったのか?成功してビッグマネーを手に入れたのか?失敗して捕まっちゃったのか?何かを知ったのか?それとも知れなかったのか?はたまた??

「悪の法則」と「2666」について

まず「悪の法則」についてです。

メキシコの麻薬取引に関わった人たちが皆大変な目に遭います。


さっそくですが、「悪の法則」という邦題、ちょっとどうなのでしょうか。というか、はっきりいうと、ワタクシ、このタイトルは制作者の意図をすぼめてしまうものではないかと思うのです。だって、このタイトルだと「一度ヤクザに関わっちゃうとどうにもこうにも抜け出すことが出来ないよ」的な内容に囚われてしまいませんか。つまり、この映画はそういう話ではないのです。いや、そういう話なんだけど、「こわい組織の不条理性」ってのはあくまでもメタファーであって、この映画が描こうとしているのは、「もっともっと根本的な何かの不条理性」なのです。これは絶対にそう。絶対にそうなのです。自信たっぷりに断言できるのです。なぜなら、この映画の脚本を書いているコーマック・マッカーシーの他の作品「ノーカントリー」も全くおんなじテーマなんですもの。
ちなみに「ノーカントリー」における「根本的な何かの不条理性」の描き方もとても素晴らしいものです。あの作品ではアントン・シガーというとても魅力的な殺人マシンが登場して大活躍します。それはもう「不条理の権化」の如き大活躍っぷりです。つって、それだけだとそういうキャラがイイカンジで暴れまわるだけの作品になっちゃうかもしれませんが、ノーカントリーは一味違う。そこから一段踏み込んで「不条理の権化の如きアントン・シガーですら不条理の法則の中に在る」って描いているんですよね。これはマジヤバイです。

話を戻しますと。「悪の法則」では、とある登場人物が暗躍しまくって、色んな人達を地獄送りにしていくのですが、じゃあ、その人物が「不条理の権化」なのでしょうか。ワタクシ、観終わった直後はそう感じてましたが、それにしてはちょっと弱いっちゅうかなんちゅうか、腑に落ちない所があった為、しばらく考察してみたところ、新たにおそらくこれが答えだろうというのが導き出されまして、じゃあそれは何かといいますと、マッカーシー「メキシコという国そのもの」を「不条理の権化」として描いているように思うのです。「劇中のメキシコ」に関わる全ての事象が発する死のヴァイブスの容赦なさ――そう、ヴァイブスなのです。ヴァイブスってのがハンパないのです。特定のキャラが死を司っているわけではなく、死はそこら辺に漂っている、というか、我々は死に内在されているってのがより明快に描かれている。あーマジヤバイですね。

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ところで、「悪の法則」の終盤において、メキシコを彷徨うファスベンダーがデモに遭遇するシーンがあります。大した説明もなく唐突に差し込まれるシーンなので一体なんなんだろうって感じてしまうかもしれませんが、あれはメキシコで実際に発生してるシウダード・フアレス連続殺人事件に対するデモなんですよね。

シウダード・フアレス事件とは――アメリカとメキシコの国境沿いの街であるシウダード・フアレスで95年からつい最近までの間に、少なくとも800人の女性が殺人事件の被害者になっているという事件です(行方不明者も入れると数千人になるとのこと)。これだけの規模なのにも関わらず、いかなる犯人、いかなる犯罪組織が関与しているかは不明という事件*1。というか事件という規模なのか……?という事件です。


さて。じつは、日本では「悪の法則」が公開される前に、シウダード・フアレス事件がモチーフに使われている小説が刊行されました。それはチリ出身の小説家、ロベルト・ボラーニョ氏の遺作「2666」という小説です。と言っても「2666」の物語の軸は「犯罪」ではなく――

凡ゆる経歴が謎に包まれている作家アルチンボルディの正体を突き止めようとします。


という話なんですけど、そん中でシウダード・フアレス事件をモチーフにしたお話がゴリッと絡んでくるのですね。これ、ほんとゴリッという言葉が適切だと思ってて、だって、一章を丸々使って、事件に巻き込まれた女性たちのことを延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々延々レポート的に綴っているんですよね。正気の沙汰とは思えません。

興味深いのは、「2666」も「悪の法則」と同様、「根本的な何かの不条理性」を描いているということです(というか、発表順からいうと「2666」のほうが完全に先なので、それに触発されてマッカーシーが脚本を書いた可能性は多分にあります)。ただし、近しい作品だからこそ差異が際立つところもあって、「2666」では、軸が軸だけに行間からボラーニョの情念が滲み出まくっています。これがもうたまらないのです。ボラーニョの情念、それは小説家であることの叫びです。でも、彼の叫びの高い純性は、自我の叫び、というか生まれてきてしまった者の叫びのレベルまで昇華されている。もし、興味持たれて読む方がいらっしゃったらと思うので、詳細を書くことは避けますが、ボラーニョは「根本的な何かの不条理性を踏まえた上で、半ばヤケクソ的ともいえるかもしれんけど、もがいてもがいて生きるサマ」ってのを「星の瞬き」に例えて表現しています。そして、そのような言葉を記した作品が遺作であるという事実――これはもうなんともたまらんものがあります。
「2666」も「悪の法則」同様、そうではないものとして読むことは出来ます。そして、そうではないものとして読んでもヤバいのはヤバいのですが、ホントのヤバさはその奥側にある。「悪の法則」は観たけど「2666」は読んでいないって方のほうが圧倒的に多いと思いますので、もし興味持たれましたら、是非「2666」読んでみて欲しいですね。

*1:逆にいえばこれだけの規模だからこそ諸々不明になっているといえるかもしれませんね

「ばしゃ馬さんとビッグマウス」 誰がこの脚本を書いたのか――

とにかく、麻生久美子さんが超絶に可愛いです。可愛すぎます。いざ、感想を書こうと思い、面白かった場面を振り返ろうとしましたら、頭に浮かぶのは、とても可愛らしかった麻生久美子さんの御姿ばかり。しかし。具体的にどこがどうってのは全然出てこない。なぜなら。麻生久美子さん、全部ヤバいから。そう。麻生久美子さん、全部ヤバいのです。1200%可愛い。仮に現実世界で麻生久美子さんと出会うことがあろうものなら、脳みそが「認識出来る可愛さ」の上限を振り切っちゃって発狂してしまうかもしれん……と思えるぐらいの可愛さです。人がもし、神と呼ばれる存在と接触することがあるとしたら、その時、人は神と呼ばれる存在を理解できるのでしょうか。僕はできないと思う。理解できず、ただただシンプルに発狂するのではないかと思う。麻生久美子さんはそれぐらい可愛いのです。つまり、女神です

脚本家を目指してちょー頑張ってるけど結果がついてこない馬淵さん(麻生久美子さん)と、なんも作ってねーのに偉そうなことばっか言ってる天童くん(関ジャニの安田くん)のお話です。


というわけで、麻生久美子さん演じる馬淵さん、超絶に可愛いのですが、彼女、クリエイターとしてはホントどうしようもないポンコツなんですよね。そのサマを愛すべきドジっ子的に描くでもなく、逆に嫌みったらしく描くでもなく、過剰な説明を省いてリアルに描いておりましてとても素晴らしいです。
例えば。馬淵さん、とある映画監督から助言(?)を受け、老人介護をテーマにした脚本を作ろうと思い立ち、取材のために元カレ頼って介護施設へボランティアに行くのですが、そこでの振る舞いがホントにどうしようもなかったりします。じつはワタクシ、つい最近、介護施設に行く機会があったのですが、そん時、正直な話、わくわくする部分があった。「ここにいる人たちの人生を知りたい…!」と思った。それは勿論清廉な理由からだけではない。ゲスい心情も多分にある。でもさ、モノを作る人ってそうあるべきじゃん?倫理的に正しい正しくないじゃないじゃん?そこ踏み込まんとダメじゃん?なのに、馬淵さん、そういうことは全然してないっぽくて、ただ単にお爺ちゃんお婆ちゃんの世話するばっかなのです。「あ。この人、なんだかんだいって事象を上辺だけしか捉えようとしてないよな。結論ありきで取材してるよな。そんな人が面白いもん作れるわけないよな」と思ってしまう。こういうのを、言葉では説明せずに表現するのってホント素晴らしいし、じつに映画的ですよね。
と。そんなカンジのポンコツクリエイターワナビーだった馬淵さん(と天童くん)なのですが、話が進むにつれて、それじゃあダメだなあと気づいてくれまして、自分と向き合った作品づくりに取り組むことになるのですが。が。ここからの展開もなんだかんででわりかしビターで素晴らしかったりします。ワタクシは常日頃「クリエイターはパーソナルな部分を曝け出してこそなんぼ」と思ってて、で、クリエイターの問題はその先だと思ってて、つまり「パーソナルなものをどうやって世間とすり合わせしていくか?」だったり「パーソナルなものの受け容れ無さをどれだけの熱量で押し切ってしまうか?」だったりとかが勝負だと思っているのですが、この作品は、その点においてもなかなか容赦ない展開を用意してらっしゃるわけです。つまり、この作品、はっきりと「あんたらはようやく土俵にあがっただけに過ぎないんだよ」つってるわけです。ホンット好感持てますね。


といったカンジで、映画自体はとても面白かったのですが。が。ワタクシの頭の片隅には見てる間じゅうずーっと「これは俺の映画ではないよな」感が漂っておりました。それはどういうことかといいますと――
ワタクシはこれまでの人生において、馬淵さんや天童くんみたいな人物、端的にいうと「無根拠な自信を持って夢へ向かって驀進しているげな人物」たちを見るにつけ「あいつらウザいし、絶っっっ対何者にもなれんわ」と思いながら、それと同時に「でも、結局、何者にもなれないと悟ったような顔をして何もしない俺もあいつらとおんなじクズ」とも思いながら生きてきたわけです。「何者でもない自分」を過剰に受け入れ死人として生きる――つまり「桐島、部活やめるってよ」におけるヒロキ君的ニヒリズムに囚われ、深い深い絶望ベースで人生送ってきたわけです。そんなワタクシからしますと、馬淵さんと天童くんは存在自体が勝者なのです。そう、ワタクシがあいつらに抱く感情は「ウザさ」と同時に「羨ましさ」もある。あんましなんも考えずに、身内ノリのギャグとテレビの芸人のギャグをパクっただけで一笑い頂き、あろうことか「俺ら芸人になるわ!」と言えてしまう短絡さに対する羨望。そう、なんだかんだいって羨ましいのです。つかさ!単純によ!ファミレス的なところで!麻生久美子さんと脚本のチェックしあうのとか!ぜんぜん理解出来ひんかった年下の男の子と!なんだかんだで距離が近づいていくのとか!全然ええやんけ!そんな至福の時間が体験できるんやったら何者にならんでもええやんけ!知らん!!キー!ともなりますよね。
さらには。この作品、終盤、時系列から鑑みるに「明らかに劇中の誰かが【ばしゃ馬さんとビッグマウス】の脚本を書いたであろう」というメタ演出が盛り込まれている。それってさ、登場人物にはある種の「救い」をもたらすんだけど、徹底的な負け犬人間であるワタクシ的には、それはちょっとヤダな……と思ってしまいました。だってさ、それだと、向こう側の圧倒的な勝利なんだもんな。キー。


といったカンジだったのですが。エンドロールが始まった瞬間、ワタクシ、自分でもまさかの号泣をしてしまいました。つまり、これはアレだ、登場人物達の実在感がハンパなかったということなのでしょう。あまりに実在感ありすぎて、ふと「ああ。もうこの人達と会うことはないんだろうな」と思っちゃってなんだか泣けてしまったんだろうかな。それは別離の寂しさつーのとはちょっと違うような、なんつーか、断絶に継ぐ断絶の人生を送ってる自分にとっては、その途切れちゃった事実を思い出しちゃったってカンジなんかな。わかんないわ。まあ、とりあえず、実在感あったちゅうわけです。

そういや、ワタクシ、この作品でもう一つグググと泣けたのは、天童くんのお母さんが「食べり」と言って蜜柑を差し出すところだったりします。「食べ」とか「食べんか」じゃなくって「食べり」!リアル!!

「サプライズ」次はお前だー!

わりとネタバレしていますので、これから観賞されるご予定のある方は後ほどのほうが良いと思います。が、致命的なことは無いように気をつけてはおります。

とある家族が人里離れた別荘で動物のマスクをつけた怪人に襲われます。


とりあえず、諸々の設定がとてもわかりやすくて素晴らしいです。
両親の結婚35周年パーティに参加するため、長いあいだ離ればなれで暮らしてきたっぽい息子娘たちが人里離れた別荘に集まってくるんですけど、そこに集いし四人兄妹とそのパートナー達、揃いも揃って(しかし、それぞれ違った方向で)絶妙な塩梅のカンジの悪さ醸し出してんですよね。最高です。ジョックスの長男。ニートの次男。パンクス?ゴス?の三男。オシャレサブカルの妹。こうやって書いてみると、スクールカーストの置き換えみたいだな。まあ、とりあえず、誰が犠牲になっても、そこまで後味の悪さを感じない絶妙な設定で、でも、だからといって書き割り感のあるキャラは一人もおらず、みんなどこか愛嬌あってとてもイイカンジです。思わぬところで出るしゃべり方の品の良さとか素晴らしかった。とくに長男は距離をおいて観察する分には激キャワ。基本ウザいから近くにはいてほしくないけど。なんか体臭キツそうだし。

もちろん、お父さんお母さんもイイカンジでヤバかったです。なにせ、お父さんは軍事産業マーケティング部門で働いてらっしゃったとのことで、もうそのワンフレーズだけで、お父さんのクソ人間っぷりと大金持ちっぷりがよくわかります。つかさ、お父さん、なんでこんなとこに別荘買っちゃったんだよ!少し前にお隣さんの家も動物マスクの怪人に襲われてるのに!んでそれが全く発覚してないぐらい辺鄙なところだなんて、環境もタイミングも最悪すぎ!つって、まあでも「事故」ってそういうもんですからね。「不慮の事故」っていうけど事故って基本的に不慮だから。とフォローしておきます。


さて、お話しが進んでまいりますと――まあ、これはしょうがないですね、そういう映画なんですから――兄弟の元に殺人マシンの魔の手が迫ってきます。そして、欲望にまみれた醜き俗人がおもっくそ殴打されちゃったりガリガリされちゃったりします。本来そういうふうに使っちゃあダメなもので。でも、ダメだからこそとてもイケてます。エモいです。最高です。いやホント、この作品、殺人マシンが殴りながらテンションあがってきてんのがビンビン伝わってくるんですよね。あれはなんとも人間臭くて良い。共感しちゃあダメですがおもわず「頑張れ!!」って思ってしまいますね。
あとさ、例えば、過去のスリラーに登場する殺人マシンおじさんの中にも、オシャレなブービートラップしかけてはった人っていると思うんですね。ドア開けたら喉元に当たる位置に鋭利な鉄線張ってみたりとか。それってさ、我々観客は、獲物がトラップにはまる瞬間しか知らんくて、だから、必然そのシーンはテンションあがっちゃうだけになりがちなんですが「じつはそのトラップってわりと緻密にし掛けてる」という事実があるはずなんですよね。で、です。なんとこの作品、その辺りに関しての言及をしておりまして、その「じ・つ・は」の部分、つまり、殺人マシンが地道に罠を仕掛けるとこを入念に描いてみたりしてんですよね。これがマジでオシャレ。金の亡者がトラップにはまる瞬間とかフリオチ効きまくりで、つか、ご丁寧なことに罠にはまる瞬間をスローモーションでみせたりするもんだから、ちょー最高だったりします。観客もおもわず笑顔で「yeees!!!!」と言っちゃう勢いではないでしょうか。
他にも、殺人マシンによる恐怖演出具合とかも最高に良かったです。スリラーものみてたら「この殺人鬼、細かい恐怖演出してくるよなあ」ってのあったりするじゃないですか。「獲物の恐怖心煽ってんなあ」つって。この作品では、フラッシュが効果的に使われていましたね。フラッシュがバシッ!バシッ!つって。あれ、実際目くらましになるだろし、なんか高ぶるし「わかってんなー!この殺人野郎!」ってなること間違いないですね。他にもさ、闘いの中で殺人マシンも傷ついたりするわけですけど、その都度、イカしたシンセサウンドが鳴り響いたりして、いちいちイイカンジにしてくれるので、観終わった後はとっても爽やかな気持ちになるという稀有なパターンのスリラーでしたね――


つって、こういう風に書いてみるとすげー普通のシチュエーションスリラーみたいですね。いや、そうなんですよ、おそらくパーツパーツは普通なんですけど、これがとっても面白く化けるんですよね。どういうことかっつーと、それは見てのお楽しみですね。あっと驚くサプライズがあるかも。というわけでオススメ。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」

ましたが。「神」という存在は、「神」という名があるからには「神」として認識はされているわけじゃないですか。「神」はそこに在るのではない。我々がつくっているのです。そう考えると彼女は「神」なんかじゃない。だって誰も彼女の存在を知らないんですもの。いや、もちろん我々は彼女のことを知っています。でも、それは我々がルールの外にいるから知っているだけあって、例えばです、もしかしたら我々の世界はもっさいおじさんの超絶なパワーによって調和が保たれているのかもしれないじゃないですか、でも、そんなこと誰も知らんし知りようがないし、知りようが無いから、それがもっさいおじさんかどうかもわからない、わからないということは、おじさんは存在していないのです。つまり。彼女は「仮定としてのもっさいおじさん」と一緒なわけですから、彼女はあの世界においては何者でも無いし「概念」ですら無い。でも、でもです、彼女は何者でも無いのに何者かのために存在(?)し続けている。なんたることでしょう。これはひどい。ひどすぎます。僕は忘却というものはもっともやるせないことのうちの一つだと思うのですが、しかし、それは同時に安らぎをもたらすとも思う。じゃあ彼女は。彼女はどうなのか。なんと彼女は忘却されているのにもかかわらず、安らぎを得ることもできないのです。最悪です。じつに最悪。これは割に合わん。さらにいうなら、このような鬼の所業をごくふつーの人物に背負わせているわけですから、絶対に絶対に割に合わん。というか、それぐらいの対価を払わんと精算出来んシステムを作り出したインキュベーターってやつのエグさもたまらんし、もう一段ふみこむと、あらゆる資源や生物をなんやかんやのロジック使って搾取している人間のエグさっつーのも浮き彫りになり――ってもうホントにイヤになりますね。最高です。
とりあえず、僕はテレビシリーズの一番最後において、たとえほむらちゃん一人だけだとしても彼女の存在を知っているつーことに対してもんのすごい救いを感じた。ほむらちゃんが存在することによって、彼女は初めて「概念」たり得る。はじめて報われる。だから、ほむらちゃんの負担ってのは感じなかった。それ以上に安堵があったってカンジです。というわけで、テレビシリーズのまどマギは、結末及び、そこに至るまでのまさかのSF展開があまりに見事すぎて、身体の芯から震えちゃうレベルだったため、続編は見たいようで見たく無いような気持



法少女になるか否かっつーのを12話使って描くなんてすんごいメタですよね。そういう流れがあったものだから、このたびの劇場版、始まってしばらくは「あ。これはファンサービスの作品なんだな。それはちょっと残念な部分もあるけど楽しい部分もあるので前向きに見てみよう」なんて思ったわけです。実際、テレビシリーズの終盤で明かされるまどマギの世界観においては序盤で起こるようなことがあっても全くおかしくないわけですから、その辺はとくにストレスなく楽しんでみれました。ホントはちょっと照れましたが。しかし。嗚呼、これが甘かった。もう見事に騙されました。なるほどそういうことかと。それさえトラップに使うのかと。恐ろしいなと。はいはいこの展開ねと。これはアレだろうと。学園祭前日だろうと。そういうわけで、これはこれで悪夢感あるけどほむらちゃん頑張って!!ってカンジで余裕ぶっこいて観てましたら――まさかまさかの巨大な落とし穴が。おもくそはめられてしまいました。怖いわ、まどマギクルー。ツイストがすぎるよ。
そんな具合ですから、劇場版まどマギは、観る前の懸念はなんだったんだレベルの仕上がりで、蛇足どころかテレビシリーズにあった要素がさらにさらにハードコアになっててヤバかったです。マジでハードコアすぎて精神的にクるレベルでヤバかった。だってさ、テレビシリーズでのまどかちゃんの決断、あれやっぱ本人辛かったんだ……てのをはっきり見せてきたりするじゃないですか。あれ、やめてほしいですよね。そりゃあまあ深層の部分ではそうだよなあと理解してたけど、改めて彼女の口からそう言われると吐きそうなレベルで辛いし、だから、そん時のほむらちゃんの気持ちになるとさ、狂いますよね最高です。で、その行き着く先がアレでしょう。もうさーなんなんだよ。もし続編あるなら、それはもう行くとこまでいかんとダメで、んで、その結果、デビルマンみたく「昇華っぽい」エンディングを迎えることは可能だと思うけど、でも、それはやっぱあくまでも「ぽい」だけであって、元々、魔法少女達が求めていた安寧な世界とは違うわけだろうし、いや、違わんかもしれないけど、でも絶対違うわけで、だから、傷口は本作レベルでとどめといてほしいから続編は作ってほしくないかもな……なんて思ってしまうレベルではまってしまいました。観たくないかもなんて言ってますけど、まあもし続



いなのは、物語がSF的世界観からもう一段上のステージ、つまりは神学の領域に突入しちゃうことによって、若干「宙に足が浮いた感」があるため、ちょっと距離間を持って見ることが出来る部分があったのは良かったのかもしれません。もし、これがもうちょいSF的ロジックいれられてでもして、より地に足着くような設定盛り込まれてたりでもしたら、あまりに刺激が強すぎて劇場で精神発狂してゲロ吐いてたかもしれません。あと、テレビシリーズん時から感じてたジョジョ感がですね(ほむらちゃん、ワルプルギスの夜んときロードローラーに乗って特攻してくれてたら最高だったのに!)いよいよスタンドみたくなってて、つかさ、あれこそスタンドの正しい描き方だよな!ってカンジで最高だったので、もちろん強烈な悪夢感はあるんですけど、ポップさも若干増しててここもゲロ吐き中和になってたと思います。まあしかし全体的にビジュアルちょーヤバかったですね。なんなんですか一体。気持ち悪すぎて最高です。で、